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明日はいよいよ裁判員【追記あり】 [雑記]

大阪旅行の疲れが出て、昨日は20時間くらい寝てしまった。
昼起きて、ご飯食べたら眠くなったので3時間昼寝して、起きて夕飯を食べたら眠くなったので4時間夕寝して、起きたら既に12時近かったので「これじゃ明日起きられないぞ」と思って、酒飲んで夜も寝ました。
寝すぎてブログも更新してないや~と思ったら、なにげに更新してたのを今日になって気づいた。
偉いぞ、自分。でも愚痴エントリーだな(笑)

明日は昼から模擬裁判に出席してきます。チラシによると裁判官役、検察官役も参加者の中から選ぶそうですが、たぶん年齢的に私が選ばれることは無いでしょう。どういう事件を想定するのかも分かりませんが、実際に裁判員が担当するのは重大事件に限られているので、放火・殺人・傷害致死の中のどれかでしょう。
求刑が死刑になるような物なのかはまだ分かりませんが、いずれにしろ大変な判断です。
時間的にそんなに無いので、たぶん裁判員を選ぶ面接の時点からではなく、いきなり裁判そのものから始まるのだろうと思います。ですから模擬裁判に参加しても、裁判員を選ぶ過程での具体的な手順や問題点については知ることが出来ないと思われます。
出席レポートは出来るだけ早くあげたいと思ってますが、内容が多岐に渡る可能性もあるので、その場合はご容赦を。

ちなみに今、「そもそも近代の刑事裁判ってなんすか」という内容のエントリーを書いていて、これがもう3回くらいに分けてあげなきゃいけない長文になっており、しかもまだまだ終わりが見えない状態です。遅くとも来週中にはアップしたいと思ってますが、どうなることやら。
とりあえず今日は渋谷で映画を観てきます。

2007/10/09 16:50
ぎゃあ!!!
途中まで書いた”「そもそも近代の刑事裁判ってなんすか」という内容のエントリー”の一部を誤って消してしまった(T_T)
しかも、一番資料を見ながら苦心して書いた部分を・・・。あぁもう。


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光市事件について議論するのがキツイ理由 [光市事件]

私は光市事件の報道を見て、一度リストカットしたことがある。もう1年以上前のことで、どういう報道内容だったかは忘れてしまったが、おそらく例によって例のごとく、とにかくさっさと死刑にしろ!が叫ばれていたのだろう。
自分で自分の追い詰められ感が不思議だ。なにしろ被告も弁護団も赤の他人である。どうなろうと私の生活に直接的な関わりは無いし、正直知ったこっちゃ無いよ。
それでも、この事件に対する報道が、私にとって(主観的には)間違いなく「自分の問題」であることは事実だ。るかさんがコメントくださった言葉を借りれば、メディアで叫ばれる「殺せ、殺せの世間の言葉を聞くと胸が苦しくなります。私が言われているようで」と、私もまた感じ続けている。
これには、一つは以前書いたように、私自身の個人的な人生経験から「社会的な価値観と相容れない者への排除」に対する強烈な恐怖が根底にある。だから、世間が何者かを社会から排除しようとするとき、自分もまた排除される側に回るだろうとの恐怖がついて回る。

もう一つは、メディア情報と個人との距離の問題だと思う。
かつて人々にとって自分を取り巻く「世間」は、家族や親戚であり、隣近所であり、同級生や先輩であり、友人だったろう。つまりは実際に自分と直接的に関わる、周囲の人々だけが「自分を取り巻く世間」だった。
しかし今は、「世間」にメディアがプラスされ、しかも場合によってはメディアが「一番大きくて信頼できる世間」になっている。ここでいう「信頼」とは、メディア情報が正しくて共感できるもの、という意味ではない。「メディアで多数を占めている意見が、実社会でも多数を占めているだろう」という意味での信頼、つまり、メディアの声が世間の声と一致していることに対する信頼感だ。
それ故、メディアで報じられる「正しい意見」があまりにも自分の見解と乖離していると、「日本中で自分だけが違う意見を持っている」ような感覚に襲われる。メディアで繰り返される弁護士バッシング・被告を殺せ!ムードを受けて、私が「日本中が自分に死ねと言っている」ように感じるのは、私もまたメディア=世間との世界観の中で生きている部分があるからだろう。

橋下弁護士に関するエントリーへのコメントが、当ブログでは最多となっている。その中で私がコメントに返信しない期間が続いており、「議論を放棄している」とのご指摘を頂いた。
それはまったく仰る通りだ。自分でもそれを良いことだと思っているわけではない。
けれど、ただでさえ「世間」で光市事件の弁護団や死刑廃止論が袋叩きになっているのを目にし、自分自身が精神的に追い詰められていく中、自分のブログでまで批判を受けてたつのはわりと辛い作業だ。水葉さんのブログなんかを見ると、いつも一つ一つ丁寧に返信していて、本当によくやってるなぁーと関心仕切りである。
光市事件の報道や懲戒請求問題について、「ちょっと世間はオカシイよ」と言おうモンなら、既に散々聞いた批判をまた聞かなくてはならない。しかも、一言「人権」とか言えば即座に「被害者の人権は守らなくて良いのか!」と、誰もそんなこと言ってないのに攻め立てられるのは目に見えているし、感情的・感傷的に、だれの命でも大切!とか、脅迫を受けて弁護団がかわいそう!とか反応してしまえば、「テーノーサヨク」などの烙印を押されて炎上→閉鎖の末路をたどりかねない。
弁護団を批判する人々は、いろいろ理屈はあるにせよ最終的には「遺族の感情」「遺族の人権」という否定しようのないものを持ち出すか、「世間の風」的な言ったもん勝ちの基準をふりかざす。しかし、こちらが人権や感情を持ち出すことは許さない。
だから、こちらはメディア情報を含めた圧倒的多数に対して、感情や人権を持ち出さず、あくまでも論理的な反論をしなくては聞いて頂けない。特に懲戒請求問題については、法的な見地からの疑問が重要なので、その視点から反論するしかない。

しかし、法律なんて私にゃ専門外なわけで、専門外のことで論理を組み立てるのは大変な作業だ。手間も時間も精神力も相当に要する。
一方で相手のほうは、法解釈から云々する必要が無いから、多く弁護士がなぜ(弁護団の主張に批判的な人までもが)橋下弁護士に疑問を呈しているか知る必要もなければ、知ったところで「法律家が世間を知らないからだ! そんな意見は聞く必要も無い!」と切り捨てれば済む。
「世間の風」は絶対的に正しくて最重要で、それと相反するような「法曹界の常識」は取るに足らない、ってことのようだ。「遺族感情」と「世間の風」を前に、法解釈に基づいた反論は無力だ。
そのため、弁護人の職責や裁判の仕組み(当事者主義、立証責任、推定無罪など)といった大前提に対する認識は両者の間で乖離の一途をたどり、そもそもそうした大前提が違うから、話しても話しても無限ループ状態に陥る。
正直言って、圧倒的な徒労感に襲われるだけで、良い事なんて一つも無い。
それでも「言いっぱなし」なブログにはしたくないし、万が一億が一でもお互いにとって議論することが良い変化に繋がればと思う。だから批判も削除しないし、出来るだけ反論もしていきたいと思ってはいるのだけど。

あぁ、なんか今日のエントリーはひたすら愚痴でしたね、すいません。絶望して心底弱気になっているわけではないので、近日中にちゃんと再起します。上京してからの生活の変化と、大阪旅行で疲れてるだけです(笑)
とか言いつつ、菊田出演の「たかじん委員会」を観れない自分がいる。どうせ、10対1くらいの状態で、一方的に死刑廃止論が血祭りにあげられているであろうと分かりきっているからだ。それに付き合う元気は、とりあえず今は無い。


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10万人の署名 [死刑制度]

ニュース的な話題を微妙に遅れて取り上げるのが、当ブログの方針です。
いや、単に考えをまとめるのが遅いだけですが。

さて、表題の「10万人の署名」との言葉から思い出されるのはどんな署名活動だろうか?
私としては二つある。
まず一つは、自殺対策基本法の成立を求める署名だ。
自死遺族やNPOが主催して、昨年4月17日から1ヶ月間行われた。当初は3万人(年間自殺者数)を目標に掲げていたが、予想外に多くの署名が集まり、「自殺者が出てほしくない、死んで欲しくない」との思いが10万人から寄せられた。
そしてもう一つは、名古屋市で女性が殺害された事件での「死刑判決を求める署名活動」だ。
こちらは遺族が呼びかけ、急速に賛同の声が広がって、10日の短期間で「極悪人を殺せ」との思いが10万人以上から集まっている。

改めてこうして「二つの10万人署名」を文章に起こすと、とてつもない悲しさが襲って来る。情報としてはどちらも知っていたのに、自分で書いてみてちょっと呆然とするものがある。
どちらが優れているとか、良いとか悪いとか、そういう「評価」をするつもりは毛頭無い。死刑要求に署名した人々も、もちろん被害者の死を悼んでいるだろうし、二度とこのような犯罪が起こって欲しくないという「死なないで」の思いが込められてもいるだろう。
けれど、自殺者を悼む気持ちは他人への加害には繋がらない。「自殺対策を望む社会」は、むしろ寛容な社会に繋がるだろうと私は考えている。
だから、この「自殺対策を求める10万人」と「死刑を求める10万人」の図からは、どうしても社会が大きく引き裂かれて行く印象を受ける。

被害者遺族が死刑を求めるのは自由だし、署名活動をするのも、もちろん自由だ。それが少しでも遺族感情を癒し、和らげるのかも知れないとも思う。
しかし、まだ一審判決どころか裁判も始まっていない(事実関係が明らかでない)時点で、事件とは無関係の人々から10万もの「殺せ署名」が集まったことには問題を感じるし、恐怖を覚える。もしも冤罪だったらどうするのか。冤罪ではないにせよ、裁判が進むに連れて事実関係に疑問が出てきたらどうするのか。この問答無用の暴力性は一体なんだ。
「一人殺したくらいじゃ死刑にならん司法なんてオカシイ!」との思いが、この署名活動を支えているだろう。しかし、であるならそれこそ、個別事件の事実関係を無視して「死刑推進のために裁判を利用している」のではないか。遺族が、ではなく「10万人」が、である。
光市事件の弁護団に「死刑を廃止したいなら法廷外で訴えろ!」と言う人々が、自分が死刑を推進しようとするときには、個別の裁判を利用するのか。(しつこく補足するが、光市事件の弁護活動自体は死刑廃止運動ではない
また、左派っぽいスタンスで、戦争反対などを訴えている「きっこのブログ」が、この署名活動を全面的に応援し、他の死刑事件についても積極的な「死刑推進派」であることにも矛盾を感じる。
この二点については既に他のブログも指摘されているので、宜しければご参照頂きたい。
◆署名運動
◆磯谷利恵さん殺害事件について思うこと
◆「皆で殺せば怖くない」か…
◆敢えてこの3人の早期釈放を訴える(笑)
◆きっこさん、「死刑廃止論を廃止しろ!」について再考をお願いします
◆きっこのブログと大谷昭宏ら

さて一方で、私には最近、どうしても納得行かないことがある。
確かに殺人は悲惨な被害者遺族を生む。その気持ちは察するに余りあるものがあるし、経済的にも社会的にも、まだまだ彼・彼女らは虐げられた存在だろう。
しかし、では加害者の家族はどうなのか。小泉チルドレンの一人である井脇ノブ子議員(ピンクスーツのあの人)は兄が殺人容疑で逮捕され、そのためにありとあらゆる差別を受け、いじめられ、修学旅行にも「兄が人殺しだから」と参加を拒まれ、裁判費用を稼ぐために家も財産も売り払い、小学生だったノブ子さん始めこどもたちも働き、それでも生活が困窮して一家心中を試み、寸前のところで近所の人に止められた。
ところが、実はこれは冤罪だったことが後に判明するのだ。
(鈴木邦夫「今週の主張377 -事件に巻き込まれ、一家心中…そして」を参照のこと)
彼女の政治的主張は私とまったく相容れないが、彼女の経験には深く思いを馳せる。

日本では多くの人が「加害者の家族も同罪」と考えている。オウム事件の際にも、教祖のこどもたちが住民票の受付を拒否されたり、入学を断られるといった事態が頻発した。死刑囚の親族が村八分にあって自殺したケースも少なくない。
これは果たして「当然の報い」だろうか?
森達也と森巣博の共著「ご臨終メディア」に、こんなエピソードが紹介されている。
*************************
 アメリカで少年たちが学校で銃を乱射して、クラスメートを殺害する事件が続いた時期がありました。アメリカにも少年法があり、その子供たちにも少年法が適用される。しかしこのときは、あまりに悪質な事件で社会性も大きいとの判断で、一部のメディアは少年たちの顔や名前を公表しました。その結果、アメリカ全土からその加害少年の家族宛に手紙が殺到しました。
 その母親のインタビューがTBSの『ニュース23』で紹介されたのだけど、段ボール3箱分のその手紙のすべてが、母親への激励だったそうです。「うちの息子も昔は悪かったけど今は立派に更正した」とか、「今がいちばんつらいだろうけど、がんばってくれ」とかの内容なんです。

*************************
イラク戦争であれほど盛り上がったアメリカですら、加害者の家族とこんな風に向き合うのだ。親族から犯罪者が出れば、家族もろとも路頭に迷う日本とは大きな違いである。
仮に日本が、このエピソードのように加害者家族と向き合ったとして。それでも死刑制度があれば、死刑が宣告されれば、加害者家族は自分の家族を奪われてしまう。
家族を奪われた被害者遺族のために、加害者家族から家族を奪うことが「目には目を」なのだろうか。悲惨な被害者遺族を救うために、悲惨な加害者遺族を産むことが許されるのだろうか。
周囲の悲劇まで含めて「応報」だと、日本社会は言うつもりなのか。


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ブログ運営方針について若干変更 [雑記]

大阪に行って来まーす♪
ドラリオン観てから海遊館に行く予定です。
私としてはわりと面倒ですが、母の強い希望により家族サービスです。いや親孝行です。
ってことで、恐縮ですが更新はお休みします。

今月に入って少しだけ忙しくなり、帰りが遅いので、あまり気合を入れた文章が書けません。
これまで、社会問題を扱った難しげな文章を基本として運営して来ましたが、今後もそれだと更新頻度を下げざるを得ません。でも私は根性が無いので、「書ける時だけ更新」にすると「書けるとき」が来ないまま放置→閉鎖になりかねません(学生時代に3回くらい経験済み)。

ってことで、今後は身辺雑記も取り入れつつ、難しげな文章も織り交ぜて、原則毎日更新にします。
社会問題等を考えるときと、身辺雑記ではスイッチが切り替わるので、おそらく文体が全然違うと思います。その辺はご容赦を。
まぁ、どっちも「sasakichi」ってことで、全人的に知って頂ければこれ幸いです。
あ、特に知りたくないですか、そうですか。

ちなみに10/01は「法の日」だったそうで、どんな日だかよく分かりませんが、この近辺で司法制度への理解を求めるイベントが色々あるようです。私はその中で、10/10に行われる裁判員制度を想定した模擬裁判に参加して来ます。そのレポートはお約束します。
つまり遅くとも10日頃には、今までのような小難しい司法の話を書きます。それまでにも何か社会問題系の文章を書くかもしれませんが、今のところ未定です。

ま、そういうことで!
まだ帰りのチケット取ってないけど、何とか帰ってきます!


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今枝弁護士への極私的指摘 [光市事件]

橋下弁護士が懲戒請求発言をした「たかじんのそこまで言って委員会」から、懲戒請求裁判の原告である今枝弁護士に出演依頼が来たようだ。
今枝弁護士ご本人が出演したい意向であるとブログで表明していたので、出演をお勧めしないエントリーを書いていた。が、長文だったため、時間をかけて書いている間に今枝弁護士が出演を断念された(笑)
私が言うまでもなく「やめてください」の意見が殺到したようである。そりゃそうだろ。

エントリー自体は、偏向報道を可能にする技術・システムの問題も絡め、一般的なメディア論の視点から書いたので、一応アップだけしておきます。
出演断念を踏まえない時点での文章としてお読みください。

*************************

この件については反対されて当然だし、個人的にはそもそも悩む気持ちが感情的に理解できません
ただ、今枝弁護士は司法における情報公開について元々感心の高い方のようだし、裁判員制度を前に「メディアとどう向き合うか」が重要課題の一つであることは確かだから、その辺のお考えもあってのことでしょう。
それにしたって番組が悪すぎると思いますが。いや、あの番組で懲戒請求を呼びかけてるから仕方ないのだけど、あの発言をカットしない番組だからこそ「出たらヤバイんじゃ」と思うわけです。
まぁ、出演について私がアレコレ言うのも変な話です。ただ、一応は映像製作っぽいことを勉強している立場から、技術的・システム的な危惧だけ指摘しておきます。

さて、今枝ブログより。
>いわば「敵地」で闘うからこそ意味があると思うのですが、甘いでしょうか。
甘いです。
まず大前提として、録画形式の番組の場合、出演者がスタジオでいかに振舞おうと、それによって放送内容の偏向性を制限出来ることは、残念ながらほとんどありません。どんなに上手く自己演出をして正しいことを言っても、です。

具体的な仮定の上で話してみましょう。
例えば、橋下さんと今枝さんが対話しているとします。
A:橋本さんが今枝さんを理屈で問い詰めます。
B:しかし、今枝さんは論理の矛盾をいくつも指摘し、かなり有効な反論をしました。
C:一方、まったく別の話題のとき、今枝さんは出演者から差別的な罵詈雑言を浴びせられました。
D:いくらなんでも頭に来た今枝さんですが、感情的になったら負けだと思い、苦渋の表情で耐え忍びました。
さて、この仮定における今枝さんの様子がそのまま放送されれば、論理的に有効な反論を行い、罵詈雑言を浴びせられても耐え忍ぶ姿は、一定の人に良い印象を与えるかも知れません。
しかし残念ながら、物事はそう簡単ではないのです。
例えばシーンB(反論)とシーンC(罵詈雑言)を削除し、シーンAの橋下さんの発言音声(問い詰め)と、シーンDの今枝さんの表情映像(苦渋)を重ねて放送したらどうでしょう。
あっという間に「橋下さんに問い詰められ、苦しい表情になる今枝さん」の出来上がりです。
そんなバカなと思われるでしょうが、これくらいの編集はあり得ます。バラエティー番組だけでなく報道番組でも、話している内容(音声)と、それを聞いているように見える表情(映像)が、実は全然違う話を聞いてる表情(映像)であることは日常茶飯事です。

VTRはいかようにも編集できてしまう、恐ろしいものです。
インタビュー取材なども、1時間聞いて使うのは1分、なんてことはザラですから、本人の意図に反して本題とかけ離れた部分だけが使われたり、前後関係を無視して刺激的な言動ばかり取り上げられるのも珍しいことではありません。その辺りは、弁護側主張の本当の真意と、放送内容の食い違いで、既にイヤというほど経験されているかと思います。
その上、該当番組はVTRにおいてテロップ・音楽なども頻繁に使っていますから、スタジオ内では流れなかった映像などを差し挟めば、そりゃもう印象からなにから変え放題でしょう。
つまり、実際の放送内容について決め手となるのは「スタジオで何が行われたか」ではなく、「スタジオで起こったどの部分を削除し、どの部分を強調して、何がどう"行われたように見せる"か」という製作側の意図=編集なのです。
自分を褒め称えてくれる番組を望んでいるわけではないにしろ、やはり編集されてしまう録画形式の番組では、「事実と異なる姿」に歪曲されてしまう可能性が大いにあります。少なくとも、技術的にそれは可能です。

また、仮に末端のスタッフが「聞く耳をもった良い人」であっても、上層部の意見と対立する場合、現場の考えが放送に反映されることは、まずほとんどありません。
「たかじん委員会」はスポンサーを設けていない(番組中のCMはスポットのみ)ため、他の番組より一層、視聴率重視の体制にならざるを得ません。取り上げる内容を問わず、事実が確定していないのに断定的な発言が繰り返されたり、「暴言」「罵倒」「差別発言」を多用した刺激的な内容となっているのは、そうした製作システムから来る部分もあると個人的には考えています。つまり数字を取るために、単純化・過剰演出をせざるを得ないということです。
懲戒請求発言そのものに対しても、私は現場レベルでなら「これ流したらヤバイんじゃねーの?」という意見があったと推察しています。しかし、仮にそうした意見があっても、従来の番組方針からして黙殺されたでしょう。もしくは、そうした疑問を持つ人が一人もいない番組である可能性もあります。

といったコトから、個人的には番組出演をお勧めしません。
それでも尚、「わずかでも理解が広がる可能性があるなら出演したい」と仰るなら止めません。
個人的には「理解の広がり」より「誤解の広がり(によるバッシング再激化)」の公算が強いとは思いますが。


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死刑制度は存置と廃止の二項対立か [死刑制度]

よく世論調査として出される「死刑制度についての世論調査」のようなもので、たいていは死刑存置の人々がかなり多数を占める。
死刑制度に限らず、こうした調査は妥当性が問題になることが多い。死刑制度に関する調査でも、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」との究極的な死刑廃止論しか「廃止を望む」の側にカウントしていないから不公平だとか、「終身刑を導入すれば死刑制度が無くても良い」との項目を加えると廃止を容認する人がかなり増えるといった指摘がなされている。
実際、質問項目によって結果のパーセンテージはかなり左右されてしまう。例えば極端な話、「今は無理でも将来的には死刑を廃止しても良い」と「なにがあっても未来永劫、死刑制度を存置すべき」の二択だったら、廃止・存置のパーセンテージは今と同じ結果にはならないだろう。
そもそも選択肢の少ない調査で「本当の民意」なんて分かるのだろうか?
世論調査では浮かび上がらないような、死刑廃止・存置の二項対立では割り切れない多様な意見が、本当は存在するはずだ。

死刑廃止を望む場合でも、サッと思いつくだけで色々バリエーションがある。
・いかなる事情があっても死刑は廃止すべき
・将来的に国民が合意すれば廃止すべき
・被害者(遺族)に充分な手当てがあれば廃止すべき
・終身刑が導入されれば廃止すべき
・犯罪への抑止力が証明されていない以上、廃止すべき
・冤罪/誤判のリスクがある以上、廃止すべき
などなど。
これらのミックスとか、もっと他とか、廃止を望む理由、廃止を認める条件は様々だ。

逆に存置の場合も
・いかなる事情があれ、死刑は存置すべき
・国民の合意が無い以上、存置すべき
・犯罪抑止力がある以上、存置すべき
・終身刑が無い以上、存置すべき
・被害者への手当てがなされていない以上、存置すべき
などの選択肢が考えられる。

読んで頂いて分かる通り、条件付(国民の合意があれば、終身刑があれば、被害者への手当てがあれば、被害者が望んでいれば)だと廃止・存置論は結局同じことを言っている。「条件付き賛成」も「条件付き反対」も、その「条件」次第で結果として同じ選択をし得るからだ。

また、存置論者の中でも、個々の事件について死刑を適応するか否かについては
・殺人事件はすべて死刑にすべき
・現行法で死刑に相当する場合、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき
・現行法で死刑に相当しなくても、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき
・現行法では死刑が相当でも、被害者(遺族)が望まない場合は死刑を適応すべきでない
・被害者(遺族)感情がどうあろうと、現行法での適正手続きによって死刑を宣告された場合、死刑にすべき
などの考えがありうるだろう。
鳩山発言(自動的に死刑執行)について否定的だからといって、必ずしも「廃止論者」ではないのは、存置論者にも様々な動機と考えがあるからだ。死刑はあっても良いけど自動的に執行はマズイでしょ、と思う人も当然いる。

こうした多様な考え方を、結果だけを見て「廃止」「存置」の二択で考えることに、そもそも無理があると私は思う。
おそらく本来なら、存置であれ廃止であれ、共通して考えるべき問題はたくさんある。それにも拘らず、単純に結論だけで「存置」「廃止」に分かれてしまって、ほとんど交流のない現状は良い結果を生まないのではないか。死刑制度へのスタンスの多様性を踏まえた上で、「存置」「廃止」を超えて議論すべき時期が来ているように思う。
とはいえ、最近のネット上における「死刑オッケームード」は「いかなる事情があれ、死刑は存置すべき」「現行法で死刑に相当しなくても、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき」といった過激な意見が多いように見受けられるので、そもそも議論が成り立たない可能性もあるわけだけど。

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内閣府の死刑世論“操作”に加担するマスコミ


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単純には語れないルワンダの死刑廃止 [死刑制度]

◆ルワンダ政府死刑廃止へ◆

今年、ルワンダは法律で正式に死刑を廃止した100番目の国となった。何故わざわざ「法律で」と前置きするかといえば、アムネスティなどの統計には事実上の廃止国(法的には残っているが長く執行を停止している国など)も含まれているからだ。
ルワンダといえば「ホテル・ルワンダ」「ルワンダの涙」など映画にもなったように、大変な虐殺のあった国である。実に80万人以上が虐殺された。
だから私はこのニュースを知ったとき、ルワンダの人々が惨憺たる悲劇の末に「非暴力」を選択したのだなと感銘を受けたし、悲惨な歴史を持つルワンダが記念すべき100番目の廃止国となったことに感慨深いものがあった。

しかし、ニュースを見ると実はそう単純な話でもないようだ。
確かに前著したような「価値観の転換」的要素もあるのかも知れない。けれど、それだけではない。
国内での大量虐殺の末、被害者や遺族は戦犯を極刑にすることを強く求めた。想像を絶するほどの憎しみと怒りが国中を覆ったであろうことは想像に難くない。だから、むしろ虐殺後のルワンダ国内は、死刑を求める声が圧倒的であった。
死刑が廃止された今でも「我々を皆殺ししようとしたものたちを元気づかせるだけだ」「これは屈辱だ。私は家族をすべて失い、今日まで何の補償も受けていない」といった被害者遺族からの怒りは絶えない。
それにも関わらず死刑が廃止されたのには事情がある。
虐殺を行った戦犯の多く(実に100名余り)が、先進諸国へと国外逃亡してしまったのだ。
ルワンダ政府は当然のこととして、逃亡先の国々に戦犯の引渡しを求めた。ところが、日本とアメリカを除いて、先進諸国は死刑制度を廃止している。そのため、帰国すれば間違いなく殺されるであろう戦犯たちの身柄引渡しを拒んだのである。
こうした死刑制度の国際上の問題については以前も少し触れたが、やはり死刑廃止国からすれば、死刑から逃れて自国にやってきた人々を、いかなる事情があるにせよ殺す(死刑にする)ために帰国させることは出来ないのだ。
こうした事情から、ルワンダは死刑制度について大きな選択を迫られることとなった。
本来、国民大半のストレートな希望としては、国内法によって死刑に処するべきとの声が圧倒的だった。しかし、それは現実的に不可能だ。どうしても殺したいと願えば引渡しを拒否されて裁判にかけることすら出来ず、どうしても裁き・罰したいなら死刑を廃止しなければならない。
ルワンダ政府は、最終的に「殺す」ことを捨てて「裁く」ことを選択した。戦犯を見逃すのではなく罰するためにこそ、死刑制度を廃止したのだ。
ルワンダが死刑を廃止することは、国外逃亡している戦犯を死刑から免れさせることだけを意味しない。既に国内で死刑が確定していた戦犯約650人についても、自動的に「終身刑への減刑」をすることになるのだ。戦犯への怒りが充満する中、それはまさに苦渋の決断であったろうと想像する。

こうした複雑な背景を前にすると、ルワンダの死刑廃止は「厳罰=死刑」との単純な論理でも、「許し・非暴力=死刑廃止」との単純な論理でも語れないと感じる。繰り返すが、ルワンダは戦犯を厳しく罰するためにこそ、死刑を廃止したのだから。
このことから教えられるのは、「厳しい裁き」と「死刑」は必ずしもイコールではないということだ。
ルイーズ・アーバー国連人権高等弁務官はルワンダの死刑廃止について「死刑を禁止する法律の発布により、ルワンダは生存権を確実に尊重する重要な一歩を踏み出すと同時に、1994年の虐殺という凶悪な犯罪の責任者を法の裁きにかけるために大きく前進した」と述べた。死刑を廃止するという先進諸国(日本・アメリカの除く)並みの「人権意識」と、戦犯を厳しく罰する「社会正義」を同時に実現したと評価したのだ。

大量虐殺が起きた上、戦犯の逃亡によってこれほど葛藤に満ちた選択を迫られたことに、新たなルワンダの悲劇がある。日本では近頃「許せないから死刑だ」「悪いことをやったら死刑で当然」と安易に言い放つ方が多いが、ルワンダはそうした「単純なコト」を言っていられない状態だった。
だからこそルワンダの選択は、私により奥深く、なにかを問いかける。

<関連>
ルワンダ:正義の追及を促進する死刑廃止
ルワンダ:許されざるものを許す


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「不可解な遺書」の真意 [自殺]

昨年10月、「生まれかわったらディープインパクトの子供で最強になりたい」との遺書を残して、自殺した少年のことを覚えているだろうか。
当時、連鎖的な「いじめ自殺」が全国で相次ぐ中、この少年もまた命をたった。その遺書のあまりの不可解さゆえに、私は勝手に少年の幼さを連想し、最後に残した言葉が何故これだったのか、不思議でならなかった。
少年は同級生から酷いいじめを受けていた。その背景からすれば、いじめた相手への恨みつらみや、命を絶たざるを得ないことの悔しさがつづられているほうが、いくらか納得できたからだ。
しかし、この言葉に込められた本当の「背景」を先月24日のニュース記事で知った。
遅くなったが紹介したい。

福岡いじめ自殺>啓祐君の遺影、ディープインパクトと対面(毎日新聞 - 09月24日)

いじめを苦に自殺した福岡県筑前町立三輪中2年の森啓祐君(当時13歳)の遺族が24日、生前あこがれていた元競走馬ディープインパクトに会うため北海道の牧場を訪れた。啓祐君の写真を持って対面を果たした家族。母美加さん(37)は「ずっと息子の夢をかなえてあげたいと思っていた。家族としてひとつの区切りになった」と話した。

 「馬は優しい目をしてるね」。啓祐君がのめりこみ始めたのは中学2年生になったばかりのころ。競馬中継にかじりつき、ジョッキーになりたいと夢を語った。視力が悪く、コンタクトレンズをつけていた啓祐君。「目が悪くてはなれない」と、美加さんにねだってはブルーベリーを食べていたという。

 無敗で3冠を達成し、世界へも羽ばたいたディープインパクト。「どんどん強くなっていってるんだ」と家族に話して聞かせていたという。亡くなる直前は「ジョッキーは無理でも、馬にかかわる仕事がしたい」と調教師を目指していた。

 一方、2年生に進級後、同級生によるいじめもひどさを増したことが分かっている。昨年10月11日、啓祐君は「生まれかわったらディープインパクトの子供で最強になりたい」という遺書を残して命を絶った。

 この日、家族は4人で北海道安平町にある社台スタリオンステーションを訪れた。美加さんは啓祐君の写真を手に持ち、「会えて良かったね」と涙声で話しかけた。息子があこがれた馬を間近に見た父順二さん(40)は「(啓祐君は)ディープのように強くなりたかったのかもしれない。今日は見せてあげられて良かった」と話した。
【高橋咲子、金子淳】

少年の言葉を、自分勝手に「幼さ」だと解釈したことの失礼さ加減を思い知る。
他人には理解しがたい「最後の言葉」であっても、こんなにも生きた証が残されているのか。
この記事からすると、少年へのいじめが激化した時期と、少年が馬にのめりこみ始めたのは同じ時期のようだ。一頭の馬は、少年にとって最後の最後まで、数少ない希望であったに違いない。


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自滅するメディア(後編) [メディア]

<で、メディア規制はOKか>
前編では光市事件などの事件報道の現実から、端的に言えば「いかにメディアがダメか」を述べて来た。こうした現実を見ると、もう報道なんて全部規制して、好き勝手な偏向報道が起こらないように縛ってしまえ!との感情に襲われる。それこそがまさに「メディア不信」でもあるだろう。
しかし、そこにもまた異なる危険性が潜んでいる。

国会では以前から、メディア規制が進められようとして来た。
その理由として、あるある大辞典の「やらせ」問題や、朝ズバ!の「不二家に関する誤報」」が挙げられて来たし、裁判員制度を前にして「事件報道の偏向性」は今後更に強く指摘されていくだろう。
確かに市民参加の裁判において、メディア報道は判決に大きな影響を与えかねない。
OJシンプソンの事件アメリカでは稀有な過熱報道が長期に渡って続いたため、陪審員はホテルに隔離されてテレビ・新聞などのメディア情報と接触することを禁じられた。

しかし、国によるメディア規制がたどり着くのは、決して「偏向報道の是正」ではなく、「検閲」と「プロパガンダ」であることもまた、歴史が証明しているのではないか。安部元首相が、従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組に圧力をかけたと指摘されたことを考えても、政治によるメディア介入が危険をはらんでいることは「過去の話」では決して無い。
メディア規制は国民の「知る権利」を容易に阻害するし、報道の公共性を失わせるし、その帰結としてメディア自信の存在理由を失わせる。そしてミャンマーで起きた記者殺害のような最悪の事態に陥ることもある。
ミャンマーでの記者殺害については、まだ「言論弾圧としての殺人」であったか定かではないが、写真を見るとカメラを構えた記者を狙い撃ちにしているようにも見える。
これについても多くの新聞は遺体を削除して掲載しており、「仲間」の死を前にしてまで「遺体を掲載しない」とのテンプレート的な社内規定を守ることしか頭に無いのかと、皮肉にもメディア不信が一層高まっている。
もし、この事件が「言論弾圧」である可能性をメディアが積極的に取り上げ、その悲惨さと危険性を遺体写真をもって証明したなら、新聞労連の抗議も説得力を増すことが出来たし、場合によっては「やっぱりメディア規制はいけないわ」との世論に繋がったかも知れないのに。

報道規制は殺人にも繋がりかねないほど「危険なこと」なのだから、本来であればメディアは、規制や「検閲」から逃れるために、自浄作用があることを明確に示さなければならない。
事実誤認に基づく報道や偏向報道に厳しい対応を見せ、政府の関与が無くてもマトモな報道が出来るのだと証明し、報道の自由がいかに大切であるかを国民に理解してもらう必要があるのだ。それが出来なければ「あんな酷い報道ばかりやってるんだから、規制されて当然」との声が強くなるばかりだ。今はそうなってしまっている。
誤報や偏向報道を是正していくことは、もちろん報道被害に合っている人(例えば松本サリン事件の河野さん)のためでもあるわけだけど、長期的に見ればメディアが存続するためでもあるし、メディアによって情報を得る国民の利益を守るためでもある。
にも拘らず、平気で事実誤認・偏向報道を繰り返している現状は、「どうぞ規制して下さい」と言っているに等しい。まさに「自分で自分の首を絞めている」わけだ。

日本のマスメディアは日々、自滅の道をたどっている。
それに気づいていない訳ではないと思うが、やはり目先の利益=視聴率が勝るということなのか。
しかし、誤報や偏向報道を理由にしてメディアへの規制が進めば、視聴率が落ちるとか何とかより、よほど甚大な不利益になる思うのだけど。

<関連>
綿井健陽のチクチクPRESS「共通の問題」
ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会~これまで何が起きてきたのか~
イラク人ジャーナリスト、綱渡りの活動


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自滅するメディア(前編) [メディア]

裁判員制度を控え、メディア報道への懸念が論じられているようだ。
◆ついに・・・マスコミの事件報道のあり方に最高裁参事官もクレーム
個人的には、報道の自由の観点からメディア規制には慎重であるべきだと考えている。その理由は後編で述べる。ただ正直言って、現状でマスメディアが行っている事件報道の数々、特に光市事件の報道などを見れば「自業自得」の言葉しか思い浮かばない。

<光市事件報道について>
うちは今、金銭的な理由でテレビも新聞も無いのだけど、ネットで確認したところによれば、光市事件について未だに「死刑廃止運動を裁判に利用し云々」の前提で語られるケースがあるようだ。
◆スーパーモーニング女性司会者の不勉強と女性セブン取材記者の誠意
◆光市弁護団と死刑廃止論
「誰か教えてやる奴はおらんのかな」とモトケンさんは嘆いて(?)いらっしゃるが、教えている人は山ほどいるだろうと推察される。少なくとも私自身、同番組が21日に放送した内容をネットで確認し、いくら何でもあんまりだったので、抗議メールを出している。
それが23日のことだが、モトケンさんの問題とされている放送はそれ以降だ。

21日のサンプロでは、元最高検の土本武司氏の発言をVTRで紹介し、それを全面的に後押しする内容だった。概要は以下の通り。
1.弁護側は、最近判明した冤罪事件で取り調べの違法性が注目されたことを受け、世論を利用する形で「検察の取調べに問題があった」と主張し始めたのではないか
2.自らの死刑廃止論、死刑廃止運動に裁判を利用している
この前提はいずれも間違っている。
まず、そもそも最高裁の時点で既に「検察によって事件が(事実とは異なる内容に)作り上げられた」との主張が弁護側から出てきている。弁護人が有能な預言者でも無い限り、その後に判明した冤罪事件を予見して「取調べの違法性が世間で話題になるから利用してやろうぜ!」と画策することは不可能だ。
そして死刑廃止運動云々に関しては、もう何回説明すれば良いやらという感じだが、とにかくそんな事実は無い。疑問のある方は過去エントリーをコメントも含めて参照いただきたい。
21日の放送を私がとても卑怯だと思うのは、こうした主張を「番組の視点」ではなく、あくまで「専門家の一意見」を装って流していることだ。番組としては、いかに誤りがあっても「うちらが言ったんじゃなくて土本さんの私見ですから」と答えるのだろう。
しかし同番組では、土本氏への反論・疑問はまったく差し挟まれていないばかりか、フリップを出して冤罪利用説を後押しし、司会者が「死刑存廃の議論は法廷の外でやるべき」との趣旨で発言しており、明らかに番組自体が土本氏の意見を是認している。
一方で弁護団の会見内容は今枝弁護士の泣き顔を写すばかりで、何で泣いたのかも、っていうかそもそも記者会見の主要な内容はなんだったのかも、ほとんど伝えていない。

「冤罪利用説」も「死刑廃止運動説」も、今までの弁護側主張を概要だけでも知り、記憶していれば、わりとトンデモな主張だとすぐに感じるだろう。そして、それらの情報は別に困難な取材をしなくても、弁護側の出す文書や記者会見での主張内容といった「公表されている情報」にアクセスするだけで確認可能だ。
メディアが純粋に勘違いしているとは思えないわけで、明らかに「意図的に」誤解を招く報道を続けているのだ。もし仮に、万一、本当に純粋な勘違いであるなら、最低限の取材・事実確認すら怠っていることになる。


<感情の発露は重要か>
話は前後するが、この番組に限らず、「会見で涙する弁護人の図」が繰り返し流されるのにも疑問を感じる。そんなことは本当に重要なのか。少なくとも裁判には関係ないだろう。
「涙」に象徴されるような感情発露に過剰反応するのは、非常ににテレビ(映像)的な報道だ。なにを言っているか、よりも、どんな口調・表情で言っているかというディティールが重視される。被告人や弁護人について「ふてぶてしい」「涙を見せた」などが繰り返し取りざたされるのは、そのためだ。
橋下弁護士はその辺の自己演出が上手いから、あれだけ「人気者」だとも言える。

しかし、これは何も被告人・弁護側の報道に限った話ではない。被害者遺族の会見であっても、目が潤んでくると、涙がこぼれるのを今か今かと待ち構える記者たちの様子が手に取るように分かる。その間、記者たちは遺族の話しなんて聞いちゃいないんじゃないのか。
そして涙がこぼれた瞬間、シャッターチャンス!とばかりに、目がくらみそうなほどフラッシュの嵐が起こる。それで遺族は「自分が泣いてしまった」ことにハッとして、動揺のあまり更に泣いてしまうか、気丈に振舞おうとして感情を押し殺す。あらゆる事件報道で繰り返し見てきた映像だ。
あの、人の一番弱い瞬間に向けられるフラッシュの嵐を見る度、私は「一体どの口が遺族感情云々を言ってんだ」と思わずにいられない。
確かに感情は大切だろう。しかし、もっと大切なのは「泣くほどの感情」を持った人々が、一体なにを思い、なにを訴えているかではないのか。こうした遺族への扱いが、遺族を「感情だけで発言する人々」に貶めてしまってはいないか。
当初は感情を表に出すこともあった本村さんが、次第に理路整然と論理的な発言をするようになった背景に、「遺族の意見」より「遺族の感情」を重視する報道姿勢が影響していないと言えるだろうか。私には本村さんの発言内容や態度・頻度が、メディア情況に合わせて「自主規制」されているように思えてならない。

<関連>
最高裁刑事局総括参事官が自白報道による予断を懸念~その前に懸念を表明するべきは…
裁判員制度と犯罪報道の関係
裁判員制度と犯罪報道の関係2:最高裁、予断報道を懸念


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