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10万人の署名 [死刑制度]

ニュース的な話題を微妙に遅れて取り上げるのが、当ブログの方針です。
いや、単に考えをまとめるのが遅いだけですが。

さて、表題の「10万人の署名」との言葉から思い出されるのはどんな署名活動だろうか?
私としては二つある。
まず一つは、自殺対策基本法の成立を求める署名だ。
自死遺族やNPOが主催して、昨年4月17日から1ヶ月間行われた。当初は3万人(年間自殺者数)を目標に掲げていたが、予想外に多くの署名が集まり、「自殺者が出てほしくない、死んで欲しくない」との思いが10万人から寄せられた。
そしてもう一つは、名古屋市で女性が殺害された事件での「死刑判決を求める署名活動」だ。
こちらは遺族が呼びかけ、急速に賛同の声が広がって、10日の短期間で「極悪人を殺せ」との思いが10万人以上から集まっている。

改めてこうして「二つの10万人署名」を文章に起こすと、とてつもない悲しさが襲って来る。情報としてはどちらも知っていたのに、自分で書いてみてちょっと呆然とするものがある。
どちらが優れているとか、良いとか悪いとか、そういう「評価」をするつもりは毛頭無い。死刑要求に署名した人々も、もちろん被害者の死を悼んでいるだろうし、二度とこのような犯罪が起こって欲しくないという「死なないで」の思いが込められてもいるだろう。
けれど、自殺者を悼む気持ちは他人への加害には繋がらない。「自殺対策を望む社会」は、むしろ寛容な社会に繋がるだろうと私は考えている。
だから、この「自殺対策を求める10万人」と「死刑を求める10万人」の図からは、どうしても社会が大きく引き裂かれて行く印象を受ける。

被害者遺族が死刑を求めるのは自由だし、署名活動をするのも、もちろん自由だ。それが少しでも遺族感情を癒し、和らげるのかも知れないとも思う。
しかし、まだ一審判決どころか裁判も始まっていない(事実関係が明らかでない)時点で、事件とは無関係の人々から10万もの「殺せ署名」が集まったことには問題を感じるし、恐怖を覚える。もしも冤罪だったらどうするのか。冤罪ではないにせよ、裁判が進むに連れて事実関係に疑問が出てきたらどうするのか。この問答無用の暴力性は一体なんだ。
「一人殺したくらいじゃ死刑にならん司法なんてオカシイ!」との思いが、この署名活動を支えているだろう。しかし、であるならそれこそ、個別事件の事実関係を無視して「死刑推進のために裁判を利用している」のではないか。遺族が、ではなく「10万人」が、である。
光市事件の弁護団に「死刑を廃止したいなら法廷外で訴えろ!」と言う人々が、自分が死刑を推進しようとするときには、個別の裁判を利用するのか。(しつこく補足するが、光市事件の弁護活動自体は死刑廃止運動ではない
また、左派っぽいスタンスで、戦争反対などを訴えている「きっこのブログ」が、この署名活動を全面的に応援し、他の死刑事件についても積極的な「死刑推進派」であることにも矛盾を感じる。
この二点については既に他のブログも指摘されているので、宜しければご参照頂きたい。
◆署名運動
◆磯谷利恵さん殺害事件について思うこと
◆「皆で殺せば怖くない」か…
◆敢えてこの3人の早期釈放を訴える(笑)
◆きっこさん、「死刑廃止論を廃止しろ!」について再考をお願いします
◆きっこのブログと大谷昭宏ら

さて一方で、私には最近、どうしても納得行かないことがある。
確かに殺人は悲惨な被害者遺族を生む。その気持ちは察するに余りあるものがあるし、経済的にも社会的にも、まだまだ彼・彼女らは虐げられた存在だろう。
しかし、では加害者の家族はどうなのか。小泉チルドレンの一人である井脇ノブ子議員(ピンクスーツのあの人)は兄が殺人容疑で逮捕され、そのためにありとあらゆる差別を受け、いじめられ、修学旅行にも「兄が人殺しだから」と参加を拒まれ、裁判費用を稼ぐために家も財産も売り払い、小学生だったノブ子さん始めこどもたちも働き、それでも生活が困窮して一家心中を試み、寸前のところで近所の人に止められた。
ところが、実はこれは冤罪だったことが後に判明するのだ。
(鈴木邦夫「今週の主張377 -事件に巻き込まれ、一家心中…そして」を参照のこと)
彼女の政治的主張は私とまったく相容れないが、彼女の経験には深く思いを馳せる。

日本では多くの人が「加害者の家族も同罪」と考えている。オウム事件の際にも、教祖のこどもたちが住民票の受付を拒否されたり、入学を断られるといった事態が頻発した。死刑囚の親族が村八分にあって自殺したケースも少なくない。
これは果たして「当然の報い」だろうか?
森達也と森巣博の共著「ご臨終メディア」に、こんなエピソードが紹介されている。
*************************
 アメリカで少年たちが学校で銃を乱射して、クラスメートを殺害する事件が続いた時期がありました。アメリカにも少年法があり、その子供たちにも少年法が適用される。しかしこのときは、あまりに悪質な事件で社会性も大きいとの判断で、一部のメディアは少年たちの顔や名前を公表しました。その結果、アメリカ全土からその加害少年の家族宛に手紙が殺到しました。
 その母親のインタビューがTBSの『ニュース23』で紹介されたのだけど、段ボール3箱分のその手紙のすべてが、母親への激励だったそうです。「うちの息子も昔は悪かったけど今は立派に更正した」とか、「今がいちばんつらいだろうけど、がんばってくれ」とかの内容なんです。

*************************
イラク戦争であれほど盛り上がったアメリカですら、加害者の家族とこんな風に向き合うのだ。親族から犯罪者が出れば、家族もろとも路頭に迷う日本とは大きな違いである。
仮に日本が、このエピソードのように加害者家族と向き合ったとして。それでも死刑制度があれば、死刑が宣告されれば、加害者家族は自分の家族を奪われてしまう。
家族を奪われた被害者遺族のために、加害者家族から家族を奪うことが「目には目を」なのだろうか。悲惨な被害者遺族を救うために、悲惨な加害者遺族を産むことが許されるのだろうか。
周囲の悲劇まで含めて「応報」だと、日本社会は言うつもりなのか。


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死刑制度は存置と廃止の二項対立か [死刑制度]

よく世論調査として出される「死刑制度についての世論調査」のようなもので、たいていは死刑存置の人々がかなり多数を占める。
死刑制度に限らず、こうした調査は妥当性が問題になることが多い。死刑制度に関する調査でも、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」との究極的な死刑廃止論しか「廃止を望む」の側にカウントしていないから不公平だとか、「終身刑を導入すれば死刑制度が無くても良い」との項目を加えると廃止を容認する人がかなり増えるといった指摘がなされている。
実際、質問項目によって結果のパーセンテージはかなり左右されてしまう。例えば極端な話、「今は無理でも将来的には死刑を廃止しても良い」と「なにがあっても未来永劫、死刑制度を存置すべき」の二択だったら、廃止・存置のパーセンテージは今と同じ結果にはならないだろう。
そもそも選択肢の少ない調査で「本当の民意」なんて分かるのだろうか?
世論調査では浮かび上がらないような、死刑廃止・存置の二項対立では割り切れない多様な意見が、本当は存在するはずだ。

死刑廃止を望む場合でも、サッと思いつくだけで色々バリエーションがある。
・いかなる事情があっても死刑は廃止すべき
・将来的に国民が合意すれば廃止すべき
・被害者(遺族)に充分な手当てがあれば廃止すべき
・終身刑が導入されれば廃止すべき
・犯罪への抑止力が証明されていない以上、廃止すべき
・冤罪/誤判のリスクがある以上、廃止すべき
などなど。
これらのミックスとか、もっと他とか、廃止を望む理由、廃止を認める条件は様々だ。

逆に存置の場合も
・いかなる事情があれ、死刑は存置すべき
・国民の合意が無い以上、存置すべき
・犯罪抑止力がある以上、存置すべき
・終身刑が無い以上、存置すべき
・被害者への手当てがなされていない以上、存置すべき
などの選択肢が考えられる。

読んで頂いて分かる通り、条件付(国民の合意があれば、終身刑があれば、被害者への手当てがあれば、被害者が望んでいれば)だと廃止・存置論は結局同じことを言っている。「条件付き賛成」も「条件付き反対」も、その「条件」次第で結果として同じ選択をし得るからだ。

また、存置論者の中でも、個々の事件について死刑を適応するか否かについては
・殺人事件はすべて死刑にすべき
・現行法で死刑に相当する場合、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき
・現行法で死刑に相当しなくても、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき
・現行法では死刑が相当でも、被害者(遺族)が望まない場合は死刑を適応すべきでない
・被害者(遺族)感情がどうあろうと、現行法での適正手続きによって死刑を宣告された場合、死刑にすべき
などの考えがありうるだろう。
鳩山発言(自動的に死刑執行)について否定的だからといって、必ずしも「廃止論者」ではないのは、存置論者にも様々な動機と考えがあるからだ。死刑はあっても良いけど自動的に執行はマズイでしょ、と思う人も当然いる。

こうした多様な考え方を、結果だけを見て「廃止」「存置」の二択で考えることに、そもそも無理があると私は思う。
おそらく本来なら、存置であれ廃止であれ、共通して考えるべき問題はたくさんある。それにも拘らず、単純に結論だけで「存置」「廃止」に分かれてしまって、ほとんど交流のない現状は良い結果を生まないのではないか。死刑制度へのスタンスの多様性を踏まえた上で、「存置」「廃止」を超えて議論すべき時期が来ているように思う。
とはいえ、最近のネット上における「死刑オッケームード」は「いかなる事情があれ、死刑は存置すべき」「現行法で死刑に相当しなくても、被害者(遺族)が望んでいれば死刑にすべき」といった過激な意見が多いように見受けられるので、そもそも議論が成り立たない可能性もあるわけだけど。

<関連>
内閣府の死刑世論“操作”に加担するマスコミ


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単純には語れないルワンダの死刑廃止 [死刑制度]

◆ルワンダ政府死刑廃止へ◆

今年、ルワンダは法律で正式に死刑を廃止した100番目の国となった。何故わざわざ「法律で」と前置きするかといえば、アムネスティなどの統計には事実上の廃止国(法的には残っているが長く執行を停止している国など)も含まれているからだ。
ルワンダといえば「ホテル・ルワンダ」「ルワンダの涙」など映画にもなったように、大変な虐殺のあった国である。実に80万人以上が虐殺された。
だから私はこのニュースを知ったとき、ルワンダの人々が惨憺たる悲劇の末に「非暴力」を選択したのだなと感銘を受けたし、悲惨な歴史を持つルワンダが記念すべき100番目の廃止国となったことに感慨深いものがあった。

しかし、ニュースを見ると実はそう単純な話でもないようだ。
確かに前著したような「価値観の転換」的要素もあるのかも知れない。けれど、それだけではない。
国内での大量虐殺の末、被害者や遺族は戦犯を極刑にすることを強く求めた。想像を絶するほどの憎しみと怒りが国中を覆ったであろうことは想像に難くない。だから、むしろ虐殺後のルワンダ国内は、死刑を求める声が圧倒的であった。
死刑が廃止された今でも「我々を皆殺ししようとしたものたちを元気づかせるだけだ」「これは屈辱だ。私は家族をすべて失い、今日まで何の補償も受けていない」といった被害者遺族からの怒りは絶えない。
それにも関わらず死刑が廃止されたのには事情がある。
虐殺を行った戦犯の多く(実に100名余り)が、先進諸国へと国外逃亡してしまったのだ。
ルワンダ政府は当然のこととして、逃亡先の国々に戦犯の引渡しを求めた。ところが、日本とアメリカを除いて、先進諸国は死刑制度を廃止している。そのため、帰国すれば間違いなく殺されるであろう戦犯たちの身柄引渡しを拒んだのである。
こうした死刑制度の国際上の問題については以前も少し触れたが、やはり死刑廃止国からすれば、死刑から逃れて自国にやってきた人々を、いかなる事情があるにせよ殺す(死刑にする)ために帰国させることは出来ないのだ。
こうした事情から、ルワンダは死刑制度について大きな選択を迫られることとなった。
本来、国民大半のストレートな希望としては、国内法によって死刑に処するべきとの声が圧倒的だった。しかし、それは現実的に不可能だ。どうしても殺したいと願えば引渡しを拒否されて裁判にかけることすら出来ず、どうしても裁き・罰したいなら死刑を廃止しなければならない。
ルワンダ政府は、最終的に「殺す」ことを捨てて「裁く」ことを選択した。戦犯を見逃すのではなく罰するためにこそ、死刑制度を廃止したのだ。
ルワンダが死刑を廃止することは、国外逃亡している戦犯を死刑から免れさせることだけを意味しない。既に国内で死刑が確定していた戦犯約650人についても、自動的に「終身刑への減刑」をすることになるのだ。戦犯への怒りが充満する中、それはまさに苦渋の決断であったろうと想像する。

こうした複雑な背景を前にすると、ルワンダの死刑廃止は「厳罰=死刑」との単純な論理でも、「許し・非暴力=死刑廃止」との単純な論理でも語れないと感じる。繰り返すが、ルワンダは戦犯を厳しく罰するためにこそ、死刑を廃止したのだから。
このことから教えられるのは、「厳しい裁き」と「死刑」は必ずしもイコールではないということだ。
ルイーズ・アーバー国連人権高等弁務官はルワンダの死刑廃止について「死刑を禁止する法律の発布により、ルワンダは生存権を確実に尊重する重要な一歩を踏み出すと同時に、1994年の虐殺という凶悪な犯罪の責任者を法の裁きにかけるために大きく前進した」と述べた。死刑を廃止するという先進諸国(日本・アメリカの除く)並みの「人権意識」と、戦犯を厳しく罰する「社会正義」を同時に実現したと評価したのだ。

大量虐殺が起きた上、戦犯の逃亡によってこれほど葛藤に満ちた選択を迫られたことに、新たなルワンダの悲劇がある。日本では近頃「許せないから死刑だ」「悪いことをやったら死刑で当然」と安易に言い放つ方が多いが、ルワンダはそうした「単純なコト」を言っていられない状態だった。
だからこそルワンダの選択は、私により奥深く、なにかを問いかける。

<関連>
ルワンダ:正義の追及を促進する死刑廃止
ルワンダ:許されざるものを許す


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抽選的、死刑執行制度 [死刑制度]

「法務大臣の了承無しで死刑執行できるようにしたい」発言について昨日触れましたが、どうも私は発言を誤解していたようです。
いくつかこのニュースを扱ったブログを拝見したところ、大臣が望んでいるのは「何らかの基準に即した順次執行」ではなく「乱数で抽選的に執行」との意味だそうです。マジかよ!

まぁ、当初から「乱数」って言葉を使っているわけで、「乱数」の国語的な意味を考えれば「ロシアンルーレット的な抽選処刑」しかありえないわけですが、まさか一国の大臣がそこまでトンデモな発想をお持ちだとは夢にも思わなかったため、考えが及びませんでした。
法務省の役人に説教でもされたのか、再任直後に発言を「修正」していますが、改めて大臣の人柄を感じました(悪い意味で)。
抽選で処刑になるということは、高齢者でも障害者でも再審請求中でも冤罪の可能性が高くても、その状況・事情にかかわらず、無作為に「当たったら処刑」ということです。こうした発想がどれほどアリエナイかは、あえて論をつくすまでも無いかと。

それにしても、発言の真意を知って、改めてそんなやり方が死刑制度への反発を呼ばないと本気で考えているのか不思議でなりません。
まぁ、ヤフーのWEB投票では80%がこの発言を支持しているようなので、今の日本は「どんどん殺しちゃえば良いじゃん!」ってことなのかも知れませんが。だから本当は、この発言のありえなさにも論をつくすべきなのかも知れませんけど。
なんだかなー。


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オートマチックな死刑執行は存置を助けるか【追記あり】 [死刑制度]

◆お知らせ◆
カテゴリー分類が難航して来たため、追加・整理しました。 

今日は別の話題をUPする予定だったが、無視できないニュースが入ってきたので、そちらを。

<死刑>「執行は自動的に」… 鳩山法相、辞職後の会見で
(9月25日 毎日新聞)

 鳩山邦夫法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑制度について「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法がないだろうか」などと述べた。法相の信条や宗教的理由で左右される現状に疑問を呈した形だ。
 鳩山法相は「(執行命令書を出す)職責から逃げようというのではなく、『次は誰を執行』という話題になることがいいとは思えない。(確定の)順番なのか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」と続けた。また、法務省が執行の対象者を公表しない現状については、「遺族感情や他の死刑囚の心情などがある」と、公表になじまないとの見解を示した。
【坂本高志】

この話がどういう文脈で出てきたか記事を読むだけでは明らかではないため、特に後半の「『次は誰を執行』という話題になること」云々に関しては意味がよく分からない。どこで「『次は誰を執行』という話題」が出ているんだろうか。
いずれにしろ、この記事を読んだとき私は戦慄を覚える他なかった。それが誰であれ、人の生命を「数字」や「データ」としてし認識し、「事務的な処理」として処刑することに躊躇を持たない鳩山議員の人間性が克明に見える。
しかし、感情的に反応するのは避けたい。もちろん、人の生死が関わる問題である以上、それに対する感情は極めて重要であるが、個人的にはそうした感情論・人権論から少し距離を置きたい思いがあるからだ。

上記の鳩山議員の要望は、死刑執行の順番を何らかの基準によって決め、それに添ってオートマチックに執行して行けというものだ。
現行法において、死刑執行は基本的に確定から半年以内とされているものの、一方では法相の同意も必要としていることが、矛盾する結果を生んでいることは事実だ。実際、刑確定から半年以内に処刑されるケースなど、まず無い。
これをして、現行法の規定が事実上守られていないから、運用面でもきちんと守るべきだ、というのが彼の主張である。しかし、その「守るべき現行法」を半年以内という期限のほうだけに置くことは、まず不公平だし、非常に恣意的だと感じる。何故、半年という規定は守るべきで、法相の同意が必要という規定は守らなくても良いのか。その根拠はいったいどこにあるのか。
そしてこの発言は、法務省や歴代の法務大臣自身が「死刑執行は慎重な判断が必要」と言い続けてきた歴史をも一気に覆すものである。
時期を考えれば光市事件でまたしても「死刑になって当たり前だ!」と世論が盛り上がった直後であり、その「世間の風」を言い訳にして、法相の重責を回避する発言とも取れる。

就任直後の「犯罪抑止力として死刑制度は必要」との発言にも共通して感じるのは、鳩山議員が死刑制度について積極的に発言する一方、死刑制度そのものについてずいぶん無知だということだ。死刑による犯罪抑止能力は未だ明確に証明されておらず、疑問を呈する声のほうが多い。
鳩山議員は今までの発言からして明確な死刑存置論者な訳だが、であるなら、執行をオートマチックにすることによる「死刑を存置する上での弊害」については考えなかったのだろうか。
私は現在の慎重な死刑執行という体型が、死刑確定者の命を守る側面もある一方、死刑制度を存続させる力にもなっていると思っている。
もし期限に従って自動的に死刑が執行されることになれば、当然ながら執行数は劇的に増える。そうした事態に感情的な反発を覚える人もいるだろうし、国連やEUからはより大きな批判を呼ぶことになるだろう。(もちろん、だから死刑廃止のためにガンガン処刑せよということではない)
特に、法務省が「執行順序の基準」を明確にすれば、反発は尚更である。
実際に執行されている人々を見ると、そのほとんどは家族から見放されるなどして外界との交流を持たない人々だ。つまり罪の軽重や確定からの時間ではなく、表立って悲しむ家族がおらず、誰からも見放された(故に執行への反発・妨害が比較的低いと予想される)順に執行していくことが、実質の「執行順序の基準」になっている。
それを明文化・数値化してハッキリと表明した場合、国内ですらその不公平な基準に対して疑問を持つ人が出ることは容易に想像できる。死刑制度そのものに異を唱える声は、むしろ大きくなることも考えられるだろう。
実際今でも、むしろ死刑廃止論者のほうが「なぜ執行がこの人だったのか、理由を明確にしろ」と、求めているくらいだ。
だからと言って、罪の軽重や確定からの時間を主軸にして基準を決めてしまえば、執行することで大きな反発を呼ぶであろう政治犯なども執行せざるを得ず、それはそれで強い反対に繋がる可能性をはらんでいる。

そうした、死刑制度を取り巻く、建前だけでは語りきれない様々な要素を無視して、「ガンガン執行すれば死刑制度を強化できる」という単純な発想には首をかしげる。
そもそも、前大臣の長勢議員にしても、なぜ大臣職を追われるという瀬戸際のタイミングで、人命に対して慎重な態度を取れないのだろうか。いや、むしろ辞職をひかえているからこそ、聞いてもらえるうちに言いたいことは言っておけってことなのか。

新内閣発足は今夜だという。だれが時期法務大臣になるのか、注目したい。
この発言が次期大臣への布石とならないことを願う。

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【追記】2007/09/26 15時頃
再任を受け、続報です。
「バンバン執行」って言葉が、(たぶん)あえてじゃなくストレートに出てくるところが、この人らしいですね。
乱数発言については修正されたようです。法務省の役人に怒られたのかしら。
なんにしろ勉強されるのは良いことです。結論ありき、でないなら。

<鳩山法相>死刑執行のあり方巡り勉強会開催の意向
(9月26日 毎日新聞)

 福田内閣で再任された鳩山邦夫法相は25日夜、法務省内で記者会見し、死刑執行のあり方について「『この大臣はバンバン執行した、この大臣はしないタイプ』などと分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないかと考えている」と述べたうえで、改善も視野に入れた勉強会を省内で設けたい意向を示した。
 死刑執行はその重大性を考慮し特に慎重を期する必要があるとされており、法相の命令が必要となる。鳩山法相の発言の背景は、執行が行われなかった杉浦正健元法相時代(05年10月~06年9月)と、計10人の執行命令書にサインした長勢甚遠前法相(06年9月~今年8月)など、法相の信条や宗教的理由で左右される現状に対する疑問があるとみられる。
 一方、再任が決まる前の同日午前にあった会見で「(死刑確定の)順番なのか、乱数表なのか分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば『次の執行は誰』という話にならない」などと述べたが、夜の会見では「乱数表などと言ったのは少し反省している」と表現を修正した。【坂本高志】

【再追記】2007/09/26 16:30頃
どうも私は発言を誤解していたようです。
私の予想をはるかに超える「抽選処刑にしちゃえばいいじゃん」発言だったようなので、改めてエントリーを書きました。


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「死刑廃止は正しいから裁判を利用してもかまわない」のか? [死刑制度]

昨日は友人と飲みに行って、最後のほうで少しだけ光市事件の話になった。ちなみに私も友人も、死刑廃止を望んでいる。
で、マスメディア報道からの情報しか得ていない友人が「死刑廃止は正しいことなんだから、それを裁判で訴えてなにが悪いの?」と言ったのを聞いて、なるほどそういう考え方もあるのかと驚いた。
更に今日はこんなブログも見つけた。
「光市母子殺人事件の裁判報道~弁護団はほんとに悪か? 」
冒頭に「法廷をイデオロギー闘争の場にしてると言うけど、現に死刑になろうとしている(なるかもしれない)人の裁判でイデオロギーに従うのはいけないんでしょうか?。 これこそまさに闘争の最前線じゃないのでしょうか?」とあり、彼もまた、弁護団が死刑廃止運動に裁判を利用しているとの視点に立った上で、弁護団を援護している。

まず前提として、光市事件の弁護団が、この裁判を死刑廃止運動に利用している、というのは事実誤認である。
参加している弁護士22人の死刑に対する考え方は多様であり、全員が死刑廃止論者ではない。
また、本件において弁護団は「死刑が違憲である」といった死刑制度自体を否定する主張はしておらず、あくまでも死刑のある現行法を前提として、死刑のある現行法の基準において、本件は死刑に相当しないと主張しているに過ぎない。
だから、今回の裁判に対して「思想のために裁判を利用することの是非」を語ること自体が無意味だ。思想のために裁判を利用している事実が無いのだから。

それを踏まえた上で、じゃあ本当に死刑廃止論者が廃止運動という「(主観的には)正しいこと」のために裁判を利用したとして、それは許されるだろうか。
弁護人が法廷で死刑廃止を訴えることが許されるケースがあるとすれば、被告人自信が死刑廃止論者であり、被告人自信が死刑廃止を法廷で訴えてくれるよう、弁護人に望んだときのみである。例えば「私は確かに現行法では死刑に相当することをやったが、そもそも死刑制度自体が違憲なのだから、死刑判決は妥当ではない」と被告人が主張するときなどだ。
ちなみに、その場合は弁護人が個人的に死刑廃止論者であろうと存置論者であろうと、「死刑制度は違憲」との主張をすることが職責である。
被告人の意見を無視し、弁護人が自らの思想に走った主張をすることは、例えその主張が「世界平和」であろうと「貧困の撲滅」であろうと、思想内容を問わず、被告人への誠実義務違反として弁護人失格と言うしかない。
だから、「弁護団が死刑廃止運動のために裁判を利用し、被告人に荒唐無稽な証言を押し付けて裁判を捻じ曲げようとしている」と吹聴されている光市事件の弁護団に対して、その前提を信じる人々が非難を浴びせるのは当然だし、(その前提が事実である場合には)正当な批判である。

弁護人はまず何よりも被告人の権利を守る仕事であって、個人的なイデオロギーは、社会運動なり政治的な場ですれば良い。少なくとも、(被告人の意に反して)法廷ですることは許されない。
刑事裁判はことによると被告人の生涯が決まる場であって、ましてや死刑事件なら生死を左右する場だ。その中で、被告人の存在を無視し、自らの主張を行うことは、結果的にその主張(例えば死刑回避)が被告人の利益に繋がるとしても許容できるものではない。
その思想が真に「正義」であったとしても、正義のために個人の人生をないがしろにすることは、弁護士業務としても、人間的な倫理としても、決して許されるべきことではないだろう。
私自身は死刑廃止論者だが、被告人の意に反して死刑違憲を主張するような弁護士がもし出てくることがあれば、それについては大いに反論する。


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「理解不能な凶悪犯」が行き着く先 [死刑制度]

ドキュメンタリー映画監督である土本典明は、長年に渡って水俣病の問題を追い続けてきた。その作品の中に、こんなシーンがある。
水俣病被害者の代表であった川俣輝夫が、加害者であるチッソの社長(当時)に救済措置を約束させるため、長時間かけて説得する場面だ。川俣は重役たちの並ぶ机の上に座り込み、社長に向かって正面から問いかける。
「あんた趣味は何ですか? (読書との回答に対して)そうやって本を読んで感動したり、そういうことと、今私たちの苦しさは何も繋がらんとですか? 関係なかとですか?」
このシーンを見て、私は不思議な気持ちになった。感動、というのとは少し違う。なんだか妙に郷愁めいた感情が私の中でうずまいた。「いつの間に、こんなに遠くへ来たんだろう」。そんな言葉が思い浮かぶ。
前著の問いは、被害者である川俣さんから加害者であるチッソ社長への「あんたも人間だろう、人間なら俺たちの苦しみが分かるだろう」との痛切で悲痛な問いかけである。社長としてのアナタではなく、役職としてのアナタではなく、読書を趣味としている人間であるあなたへの、心の奥深くへ問いかける言葉である。
それがとても衝撃的なのは、こんな被害者と加害者の関係が今はありえないと思うからだ。
先日、初公判のあった秋田連続児童殺害事件の裁判でも、検察側は初回の審理から遺族感情を持ち出し、「遺族は(同種の)犯罪抑止のために死刑を望んでいる」ことが紹介された。死刑存置による犯罪抑止能力は証明されていないし、そんなことは検察だって知っているはずだが、それでも、被害者感情を理由として出すことが、確実に「厳罰を求めるための有効な戦術」になってきている。

加害者も人間である、との想像力が失われて久しい。
凶悪犯罪や重大な企業不祥事を前にしたとき、当事者も傍観者も「同じ人間なのに、何故」ではなく「こんな酷いことをした奴は、人間ではない」と考えるようになった。
もちろん、被害者自信に加害者への想像力を持てなどとは言わないし、言えない。そんなことは他人が口出しすべきことではない。
けれど、例えば金日成や麻原に対して「あなたも人間なら、家族を奪われた悲しみが分かるでしょう」とは、被害者はもちろん世間の誰一人として、問いかけなかった。彼らの暮らしぶりや趣味趣向がいかに報道されようとも、そこに人間性の発見など微塵もない。何故なら、だれも彼らに人間性など期待しないからだ。彼を人間だなどと思いたくないからだ。
薬害エイズの時には、まだ「人間であり医師でもあるあなたが、何故こんなことをしたのか」という問いが成立したように思う。
それからわずか数年、おそらくはオウム以降でこの問いは無効になった。私たちには理解しがたい動機から、想像もつかないような凶悪犯罪が生まれたとき、「同じ人間なのに」との前提はもろくも崩れ落ちた。「奴らは人間じゃないんだから、理解なんてできないし、しなくていい」と、いつの間にか、ものすごい速度でそういうことになって行った。
そして更に数年後、少年Aの事件を皮切りに、こどもまでもが「理解不能な殺人鬼」として認識されるようになった。

人間ではない存在に、更正の道はない。なにしろ人間ではないのだから。
じゃあ、どうするか?
永久的な悪とされた存在に「殺せ」の言葉が出てくるのは当然のことだ。そして、これまでに無い頻度で死刑判決が出ようとも、死刑が執行され続けようとも、それに異を唱える者は減り、むしろそうした「断固決然」たる態度が歓迎される。
人の命を大事にしなかった奴の命は大事じゃない、との認識が大勢を占め、殺せ吊るせを叫ぶ人々が急激に増加した。今や、多くの殺人事件において、かつては予想し得なかったほど安易に「死刑」のニ文字が登場する。
社会が複雑化し、生活形態や考えが多様化する中、私たちの周囲に「理解できない人」は増える一方だ。そうした人々が罪を犯したとき、そこに更正の余地などあるのかと疑問に思うのも無理はない。そして、その疑問が誤りであるとの確信もまた、私には無い。
しかし忘れてはならないのは、私たちもまた、別の誰かからすれば充分に「理解できない人」になり得ることだ。理解できないからと言ってあらゆる可能性を模索せず、とにかく殺すしかないと決断していくなら、その決断はいつか自分にも襲い掛かってくるだろう。


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冤罪と死刑 [死刑制度]

8月29日の「クローズアップ現代 無実の"死刑囚"124人の衝撃 ~えん罪に揺れるアメリカ~」で、アメリカの死刑制度について扱っていた。
アメリカは、日本と同じく死刑を存置している数少ない先進国である。1/3近くの州では死刑が廃止され、一部には存置しながら執行を停止している州もあるものの、多くの州では死刑制度が現存している。
しかし今、アメリカの死刑制度がゆれている。死刑が確定した受刑者の無実が、相次いで判明しているからだ。DNA鑑定技術の発達などにより、実に124人もの死刑囚が無実であったことが証明され、2ヶ月に一度の割合で死刑囚の無実が証明される事態になった。このことは死刑を存置している州で大きな議論を呼び、執行停止の判断を下す州も出始めている。
今日はアメリカと日本における「冤罪」を通して、死刑制度について考えたい。

◆物証、自白、証言、状況証拠
アメリカで無実が判明した死刑囚のうち、冤罪になった原因として最も多かったのは目撃証言である。例えば、警察が被害者に複数の写真を見せ、「この中に犯人がいるか?」と質問した場合、被害者はその中に犯人がいるに違いないと推察して、確信がなくても似た人を選択してしまう。
このような聞き取り方自体も問題であるが、結局は裁判で目撃証言が過度に評価されてしまうことが誤った判決に繋がるのではないか。実際には無実である以上、犯人だと証明する物証があるはずも無い。それでも有罪判決、ましてや死刑判決が出る背景には、証言や状況証拠、自白が絶大な権限を持っていることが想像される。
日本でも「自学偏重主義」との言葉がある通り、物証以外の証拠(らしきもの)が判決の決め手になるケースは多い。

◆取調べの可視化
冤罪の原因として次に多かったのは、事実と異なる自白だった。取調べの際に嘘の自白を強要されたり、検察にとって都合の良い部分だけが証拠として提出されていた。
取調べの可視化については日本でも必要性が言われており、現在、一部では録画・録音も始まっている。最近では証拠として取調べの録画映像が提出されたこともあるが、これも検察側が自分の主張を実証するために一部分だけを提出する形となっている。
全工程の録画・録音がなされ、弁護側に有利な録画映像も提出できるようにならなければ、アメリカで表面化したのと同じ問題が起こるだろう。
また裁判員制度の導入に当たり、最高検は「任意性、信用性に問題がある自白調書は、疑問を抱かれたときのダメージが極めて大きく、証拠提出しないという選択もあり得る」との方針を打ち出している。検察がこのような姿勢である限り、例え録画・録音がなされても、検察に都合の良い自白だけが採用される情況は変わらない。

◆証拠品の保存
アメリカでは証拠品の保存が義務付けられており、破った場合は罰則もある。そのため、かなり長期間に渡って物象が保存されている。昨今、多くの無実が証明され始めたのも、残っていた証拠を弁護側が再鑑定した結果によるところが大きい。
一方、日本は証拠品保存の義務がないため、「全量費消」としてまったく物象が残っていないケースが多い。そのため、冤罪を疑われている数々の事件に関しても、弁護側や支援者が証拠品の再鑑定・再検証を出来ない状態にある。
物象がなくとも、情況を再現して検証できるような場合もあるにはある。袴田事件で、逃走経路とされた裏口が、実は検察の主張するような施錠状態では出入りできないことが実証されてもいる。
しかし、血痕や薬品など、物理的に「そのもの」を鑑定する必要がある場合、日本ではその手立てがない。いかにDNA鑑定や化学検査が進化しようとも、モノ自体が残っていないのでは鑑定しようがないからだ。

◆上訴の義務
日本では被告が控訴をしないまま死刑となるケースも多いが、アメリカでは死刑事件は必ず最高裁まで自動的に上訴することになっている。死刑が絶対的な刑罰である以上、充分な審議が必要と考えられているからだ。
本人が控訴しないんだから判決に間違いはない、と思われるかも知れないが、必ずしもそうとは言い切れない。冤罪でもあっても、被告人が裁判に希望を持っていない場合には上訴しても無駄だと考えるだろう。また、冤罪ではないが事実認定に多くの誤りがある場合にも、被告人の反省が深ければ、判決に異を唱えることを罪だと感じて上訴しないことも考えられる。

◆代用監獄、長期拘留
日本では、アメリカには存在しない冤罪を生みやすい制度が現存している。その代表格が、いわゆる「代用監獄」である。逮捕された容疑者段階の人が、刑務所と見分けのつかないような刑事施設に入れられ、長期拘留されることは日本では当たり前の光景だ。
しかし、これは先進国の中では日本特有の制度であり、各国の人権団体や国連などからも、再三にわたって改善を要求されている。
拘束され、警察の都合のいいときにほとんど際限なく取調べできる情況は冤罪に繋がりやすい。先日発表された最高裁の報告書でも、鹿児島県議選での冤罪事件について、最大395日もの拘束に至ったことが冤罪を生んだ要因の一つとして取り上げられている。その他の冤罪事件でも、このような「人質司法」が背景にあるケースは多い。

このような情況を踏まえると、日本は残念ながら、アメリカよりも更に冤罪・誤判の危険性が高い国であると言わざるを得ないだろう。99%という世界にまれに見る有罪率の高さにも、こうした背景があることが予想される。
死刑存置論者であっても、冤罪の人が死刑になるのをよしとする人はいないだろう。それにも拘らず、冤罪の可能性が決して低くはない日本で、取り返しのつかない刑罰である死刑が存置できているのは何故か。
ここにはおそらく、死刑を存置させるための条件について、根源的な考え方の違いがある。アメリカでは「充分な審理が尽くされ、信頼のおける司法の元に限って死刑オッケー」なのであり、つまりは条件つき賛成だ。そのため、今回のように司法への不信感が高まると、死刑制度に対する疑問の声が大きくなってくる。
だが日本では、まず警察・検察や国家には無条件の信頼がある。この国には実質、「推定無罪」は存在しないからだ。そのため、無実かも知れない人が死刑になってしまうことよりも、死刑にすべき(と思える)人を死刑にしないことのほうが、世間一般の司法への信頼を落としてしまう。
このような状況下にあって、日本の死刑制度は、存置するためではなく廃止するための証明が求められる、極めて優位な立場にある。

<関連>
クローズアップ現代「無実の“死刑囚”124人の衝撃 ~えん罪に揺れるアメリカ~」
【動画】裁判官を信じられない - 人質司法と自白強要 (1)
【動画】裁判検証ができない-密かに進められる「言論規制」- Part 1

無実の“死刑囚”124人の衝撃 ~冤罪に揺れるアメリカ~
冤罪を生む構造が警察・司法制度にあるとしたら
アメリカの冤罪死刑囚


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「レズは殺してオッケー」をイギリスは認めるのか [死刑制度]

昨日、mixiで知った内容について取り上げたい。
イラン人女性のペガー・エマンバクシュさんが、本国へ強制送還される期日が迫っている。
ペガーさんはレズビアン。だが、イランでは宗教的な理由から同性愛は禁じられており、ペガーさんのパートナーは逮捕・拷問の末に石打ちによる死刑で亡くなっている。イスラム刑法によれば、レズビアン同士の性交への罰則はむち打ち100回、また3回以上繰り返された場合は死刑と規定されている。
パートナーが死刑になった事を受け、ペガーさんはイギリスへ移り、難民申請を申し立てた。

しかし、イギリス入国管理局は「本国へ帰っても危険にさらされる可能性はない」「彼女が同性愛者である証拠がない」との見解を示し、難民申請を拒否している。
彼女は今月シェフィールドで逮捕され、現在は入国管理局の収容所にいる。そして、明日8月28日に本国へ強制送還される事になっている。帰国すれば、ほぼ間違いなく「死」が待っている。
国内では同性愛結婚も認めているイギリスが、なぜこの難民申請を許可しないのか、私にはよく理解できない。そして「同性愛者であることの証拠」とないったい何なのか。
実はこうした問題は、日本でも起こっている。
チームS シェイダさん救援グループ
こちらは16年に渡る戦いの末、第3国への出国という形で2005年に幕を閉じた。難民に極めて非寛容で、同性愛にもまだまだ理解の浅い日本では「勝利」と呼べるだろう。

さて、ペガーさんについての支援活動はおそらく急激に広がっている。
日本でも有志によって外務省に要請書が提出され、ごく短期間の協力要請にも拘らず、賛同者数は207名。イギリス大使館前でも抗議が行われた。また、ネットでの署名は世界規模で既に4000を超えているという。
この問題には、死刑の是非や同性愛者への権利要求がもちろん関わってくるが、2007年に先進国イギリスが「レズは殺されてもオッケー」と認めることは、やはり私には理解しがたい。なにしろ彼女が求めているのは、ごく単純に生存権であり、彼女がそれを奪われる理由は、同性愛者であること一点のみだからだ。
死刑の存廃や、同性愛結婚の是非について意見が分かれるのは理解できる。しかし、既に死刑を廃止し、同性愛者の結婚も認めているイギリスが、何故この難民申請を受け入れようとしないのか。世界は不思議なことだらけである。

<関連>
ペガーさん強制送還反対
(問題の概要、署名への協力依頼、抗議行動の紹介など)
【転載】レズビアンの石打死刑に反対ー要請文ぜひ賛同者に(英文も)


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長勢執行は最後まで異常だった [死刑制度]

つい2日前、東京拘置所の周辺に行ってきたのだった。
あそこは都内にしてはとても緑豊かで、少し行くと荒川があり、辺りは静かな住宅街だ。
その隣で。
<死刑執行>3人を執行 長勢法相の下で10人
正直、油断していた。
お盆前に執行されるとの説が有力だったし、何より、あと4日で内閣改造だ。つまり長勢甚遠は大臣から議員に戻るんだ。政治とカネ疑惑が次々に浮上し、あと数日で大臣職を辞するであろう人間が、普通、その権限を使って人殺しはしない。と思っていたが、甘かった。

考えてみれば、長勢大臣には油断を付かれっぱなしだ。
まず昨年2006年。この年、9月26日までの法務大臣は杉浦正健であった。宗教上の理由もあって「死刑執行のサインをしない」と発言した杉浦前大臣は、後に発言を撤回したものの、実際に法務省側から提示された死刑執行命令書への署名を拒み、任期中に一度も死刑を執行しなかった。
次の大臣として長勢甚遠が就任。しかし12月後半になっても死刑の執行はなく、死刑廃止論者の中では「今年は一人も執行されずにすむ」と安堵が広がっていた。
ところが。
2006年12月25日、クリスマス。4名の死刑が執行された。
過去6年の死刑執行は一度に1~2人が通常であったのに対し、4名の大量執行。日本の死刑確定者が100人に迫ろうか、という時期だった。
年末も差し迫った時期、しかもクリスマスに、クリスチャンの男性も含めて死刑が執行されたことは衝撃を与え、他国でも大きく取り上げられた。いや、他国のほうが大きく取り上げた、と言うべきか。
ニッポンの死刑の真実と 『ル・モンド』

年は変わって、2007年4月27日。3名の死刑が執行された。
通常、死刑執行のほとんどは国会閉会中になされる。大臣自身は(歴代いずれの大臣も)閉会中を狙っているわけではないと言うものの、実際には執行に対して国会での追及を逃れるため、閉会中に執行していると見られる。
ところが、この執行は国会会期中であった。しかしゴールデンウィーク直前で、国会において充分に追及・議論がされたとは言いがたい。
とはいえ、この執行は「オレは国会会期中だろうが何だろうが、やると決めたらやるぜ」的な長勢イズムを象徴する執行ではあった。前回の執行から4ヶ月しかたっておらず、わずか就任半年で7名もの死刑を執行した大臣は異例であるからだ。
またこの頃、日本の死刑確定囚は100人を超えていたが、この3名の執行によって、偶然にも確定者は99人となり、3桁を割った。
クリスマス執行以降、世論の支持を受けたと判断した長勢大臣が、「任期中に10人の執行を目指している」との噂が漏れ聞こえてきたのもこの頃だ。

そして今日、2007年8月23日。3名の死刑が執行された。
これで長勢大臣が死刑を執行した人数は偶然にもキッカリ10人である。
以前エントリーに書いたことが、ことごとく的中した。
【安部内閣は死刑も「強行採決」するのか】
時期も人数も、ここまであからさまに執行して見せるとは。言葉が無い。


<関連>
保坂展人のどこどこ日記「"長勢法相・11カ月で10人の死刑執行"に抗議する」
アムネスティ「日本 : 死刑執行抗議声明」
フォーラム90「抗議声明」
日米での死刑執行についてのヤフーフランスの報道を見て
「死刑」―長勢甚遠法相の命令はこれで10人
8ヶ月で10人が死刑;;
まるで米日同時死刑執行―先進国の例外
死刑も強行する安倍政権
慟哭
死刑執行、10カ月で2ケタ 「内閣改造前」批判も



<東京拘置所 周辺写真>

小菅駅ホームから見た東京拘置所。同じホームの右手へ行くと荒川が見える。


右手が東京拘置所。塀沿いの道を近隣の人々が行き交う。


左手が東京拘置所。道を挟んで右手は住宅街。


右下は猫。数メートル左手には東京拘置所。


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