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自滅するメディア(後編) [メディア]

<で、メディア規制はOKか>
前編では光市事件などの事件報道の現実から、端的に言えば「いかにメディアがダメか」を述べて来た。こうした現実を見ると、もう報道なんて全部規制して、好き勝手な偏向報道が起こらないように縛ってしまえ!との感情に襲われる。それこそがまさに「メディア不信」でもあるだろう。
しかし、そこにもまた異なる危険性が潜んでいる。

国会では以前から、メディア規制が進められようとして来た。
その理由として、あるある大辞典の「やらせ」問題や、朝ズバ!の「不二家に関する誤報」」が挙げられて来たし、裁判員制度を前にして「事件報道の偏向性」は今後更に強く指摘されていくだろう。
確かに市民参加の裁判において、メディア報道は判決に大きな影響を与えかねない。
OJシンプソンの事件アメリカでは稀有な過熱報道が長期に渡って続いたため、陪審員はホテルに隔離されてテレビ・新聞などのメディア情報と接触することを禁じられた。

しかし、国によるメディア規制がたどり着くのは、決して「偏向報道の是正」ではなく、「検閲」と「プロパガンダ」であることもまた、歴史が証明しているのではないか。安部元首相が、従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組に圧力をかけたと指摘されたことを考えても、政治によるメディア介入が危険をはらんでいることは「過去の話」では決して無い。
メディア規制は国民の「知る権利」を容易に阻害するし、報道の公共性を失わせるし、その帰結としてメディア自信の存在理由を失わせる。そしてミャンマーで起きた記者殺害のような最悪の事態に陥ることもある。
ミャンマーでの記者殺害については、まだ「言論弾圧としての殺人」であったか定かではないが、写真を見るとカメラを構えた記者を狙い撃ちにしているようにも見える。
これについても多くの新聞は遺体を削除して掲載しており、「仲間」の死を前にしてまで「遺体を掲載しない」とのテンプレート的な社内規定を守ることしか頭に無いのかと、皮肉にもメディア不信が一層高まっている。
もし、この事件が「言論弾圧」である可能性をメディアが積極的に取り上げ、その悲惨さと危険性を遺体写真をもって証明したなら、新聞労連の抗議も説得力を増すことが出来たし、場合によっては「やっぱりメディア規制はいけないわ」との世論に繋がったかも知れないのに。

報道規制は殺人にも繋がりかねないほど「危険なこと」なのだから、本来であればメディアは、規制や「検閲」から逃れるために、自浄作用があることを明確に示さなければならない。
事実誤認に基づく報道や偏向報道に厳しい対応を見せ、政府の関与が無くてもマトモな報道が出来るのだと証明し、報道の自由がいかに大切であるかを国民に理解してもらう必要があるのだ。それが出来なければ「あんな酷い報道ばかりやってるんだから、規制されて当然」との声が強くなるばかりだ。今はそうなってしまっている。
誤報や偏向報道を是正していくことは、もちろん報道被害に合っている人(例えば松本サリン事件の河野さん)のためでもあるわけだけど、長期的に見ればメディアが存続するためでもあるし、メディアによって情報を得る国民の利益を守るためでもある。
にも拘らず、平気で事実誤認・偏向報道を繰り返している現状は、「どうぞ規制して下さい」と言っているに等しい。まさに「自分で自分の首を絞めている」わけだ。

日本のマスメディアは日々、自滅の道をたどっている。
それに気づいていない訳ではないと思うが、やはり目先の利益=視聴率が勝るということなのか。
しかし、誤報や偏向報道を理由にしてメディアへの規制が進めば、視聴率が落ちるとか何とかより、よほど甚大な不利益になる思うのだけど。

<関連>
綿井健陽のチクチクPRESS「共通の問題」
ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会~これまで何が起きてきたのか~
イラク人ジャーナリスト、綱渡りの活動


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自滅するメディア(前編) [メディア]

裁判員制度を控え、メディア報道への懸念が論じられているようだ。
◆ついに・・・マスコミの事件報道のあり方に最高裁参事官もクレーム
個人的には、報道の自由の観点からメディア規制には慎重であるべきだと考えている。その理由は後編で述べる。ただ正直言って、現状でマスメディアが行っている事件報道の数々、特に光市事件の報道などを見れば「自業自得」の言葉しか思い浮かばない。

<光市事件報道について>
うちは今、金銭的な理由でテレビも新聞も無いのだけど、ネットで確認したところによれば、光市事件について未だに「死刑廃止運動を裁判に利用し云々」の前提で語られるケースがあるようだ。
◆スーパーモーニング女性司会者の不勉強と女性セブン取材記者の誠意
◆光市弁護団と死刑廃止論
「誰か教えてやる奴はおらんのかな」とモトケンさんは嘆いて(?)いらっしゃるが、教えている人は山ほどいるだろうと推察される。少なくとも私自身、同番組が21日に放送した内容をネットで確認し、いくら何でもあんまりだったので、抗議メールを出している。
それが23日のことだが、モトケンさんの問題とされている放送はそれ以降だ。

21日のサンプロでは、元最高検の土本武司氏の発言をVTRで紹介し、それを全面的に後押しする内容だった。概要は以下の通り。
1.弁護側は、最近判明した冤罪事件で取り調べの違法性が注目されたことを受け、世論を利用する形で「検察の取調べに問題があった」と主張し始めたのではないか
2.自らの死刑廃止論、死刑廃止運動に裁判を利用している
この前提はいずれも間違っている。
まず、そもそも最高裁の時点で既に「検察によって事件が(事実とは異なる内容に)作り上げられた」との主張が弁護側から出てきている。弁護人が有能な預言者でも無い限り、その後に判明した冤罪事件を予見して「取調べの違法性が世間で話題になるから利用してやろうぜ!」と画策することは不可能だ。
そして死刑廃止運動云々に関しては、もう何回説明すれば良いやらという感じだが、とにかくそんな事実は無い。疑問のある方は過去エントリーをコメントも含めて参照いただきたい。
21日の放送を私がとても卑怯だと思うのは、こうした主張を「番組の視点」ではなく、あくまで「専門家の一意見」を装って流していることだ。番組としては、いかに誤りがあっても「うちらが言ったんじゃなくて土本さんの私見ですから」と答えるのだろう。
しかし同番組では、土本氏への反論・疑問はまったく差し挟まれていないばかりか、フリップを出して冤罪利用説を後押しし、司会者が「死刑存廃の議論は法廷の外でやるべき」との趣旨で発言しており、明らかに番組自体が土本氏の意見を是認している。
一方で弁護団の会見内容は今枝弁護士の泣き顔を写すばかりで、何で泣いたのかも、っていうかそもそも記者会見の主要な内容はなんだったのかも、ほとんど伝えていない。

「冤罪利用説」も「死刑廃止運動説」も、今までの弁護側主張を概要だけでも知り、記憶していれば、わりとトンデモな主張だとすぐに感じるだろう。そして、それらの情報は別に困難な取材をしなくても、弁護側の出す文書や記者会見での主張内容といった「公表されている情報」にアクセスするだけで確認可能だ。
メディアが純粋に勘違いしているとは思えないわけで、明らかに「意図的に」誤解を招く報道を続けているのだ。もし仮に、万一、本当に純粋な勘違いであるなら、最低限の取材・事実確認すら怠っていることになる。


<感情の発露は重要か>
話は前後するが、この番組に限らず、「会見で涙する弁護人の図」が繰り返し流されるのにも疑問を感じる。そんなことは本当に重要なのか。少なくとも裁判には関係ないだろう。
「涙」に象徴されるような感情発露に過剰反応するのは、非常ににテレビ(映像)的な報道だ。なにを言っているか、よりも、どんな口調・表情で言っているかというディティールが重視される。被告人や弁護人について「ふてぶてしい」「涙を見せた」などが繰り返し取りざたされるのは、そのためだ。
橋下弁護士はその辺の自己演出が上手いから、あれだけ「人気者」だとも言える。

しかし、これは何も被告人・弁護側の報道に限った話ではない。被害者遺族の会見であっても、目が潤んでくると、涙がこぼれるのを今か今かと待ち構える記者たちの様子が手に取るように分かる。その間、記者たちは遺族の話しなんて聞いちゃいないんじゃないのか。
そして涙がこぼれた瞬間、シャッターチャンス!とばかりに、目がくらみそうなほどフラッシュの嵐が起こる。それで遺族は「自分が泣いてしまった」ことにハッとして、動揺のあまり更に泣いてしまうか、気丈に振舞おうとして感情を押し殺す。あらゆる事件報道で繰り返し見てきた映像だ。
あの、人の一番弱い瞬間に向けられるフラッシュの嵐を見る度、私は「一体どの口が遺族感情云々を言ってんだ」と思わずにいられない。
確かに感情は大切だろう。しかし、もっと大切なのは「泣くほどの感情」を持った人々が、一体なにを思い、なにを訴えているかではないのか。こうした遺族への扱いが、遺族を「感情だけで発言する人々」に貶めてしまってはいないか。
当初は感情を表に出すこともあった本村さんが、次第に理路整然と論理的な発言をするようになった背景に、「遺族の意見」より「遺族の感情」を重視する報道姿勢が影響していないと言えるだろうか。私には本村さんの発言内容や態度・頻度が、メディア情況に合わせて「自主規制」されているように思えてならない。

<関連>
最高裁刑事局総括参事官が自白報道による予断を懸念~その前に懸念を表明するべきは…
裁判員制度と犯罪報道の関係
裁判員制度と犯罪報道の関係2:最高裁、予断報道を懸念


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24時間テレビのイヤさ加減 [メディア]

24時間テレビは今年で30周年だそうである。ってことは私より年上か。
私も純朴な子どもだった頃は(その期間は短かったけど)、単純にこれを良い番組だと思っていたし、募金も協力したし、頑張って24時間見続けたこともあったような気がする。しかし、さすがにこの年齢になって「善良な番組だわ、素晴らしい」と涙できるほど私はピュアじゃない。むしろ見れば見るほど腹が立つので、最近はほとんど見た記憶が無い。
この番組に対して批判的な人は、今じゃかなり多いだろう。例えばチャリティーをうたってるのに出演者は相応のギャラをもらってるとか、なんだかんだ言って結局は視聴率合戦に参加してるとか、バラエティー番組色が強くなってるとか、落ち目の芸能人カラオケで歌うことの何が世界を救うのかとか、問題点はつきない。
そういったことから「慈善番組とか言ってるけど偽善番組じゃねえか」と批判が出てくるのは当然だし、その通りだ。

しかし、私がこの番組を何よりイヤだと思うのは、そういった製作過程の問題ではない。むしろ、番組内で「善良」とされているドラマや海外報告の内容にこそ、どうしようもない憤りが付きまとう。
24時間テレビは主に障害者への救済をテーマにし、貧困、環境問題について扱うことも多い。
そこに出てくる「弱者」は、どれもあまりにも一生懸命で善良で、またその人たちと関わる周囲も、あまりにも善良で清潔だ。もちろん、実際にも一生懸命な障害者はいるだろう。それを支える善良な人たちもいるだろう。貧困に陥っている国々が「かわいそう」なのも事実だろう。でも、そんな要素ばかりのはずが無い。
この番組が「弱者」に常に投げかけるのは「あなたはそのままで良い」ではなく「善良なら救ってあげる」というメッセージだ。
その裏で頑張れない障害者は(例えば自立支援法によって)切り捨てられ、善良でない家族や周囲の人々は非人道的とされ、貧困に陥る根源的な(社会・政治システムの)問題が顧みられる事は無い。そんな存在があり得る事すら、番組は描こうとしない。
この番組を始め、多くの障害者番組は、障害当事者に「私は障害者なんだから、純粋で頑張り屋でなくちゃいけないんだ」とのプレッシャーをかけ続けている。それを想像もしない人たちが、「かわいそう、助けてあげなくちゃ」と涙を流す。

例えば石原都知事が障害者への差別を口にするのと、24時間テレビが障害者への「偽善」を振りまくのと、どちらが有害だろうか。
どちらも有害であることは言うまでも無いが、しかし石原都知事のようなあからさまな差別発言は、正直「バカが言ってる」と切り捨てる事が可能だ。むしろ24時間テレビ的な「偽善」こそが、多くの弱者を追い詰めているように思えてならない。
なぜ、障害者が差別されるのか。なぜ、貧困が生まれるのか。なぜ、環境問題が深刻化するのか。この番組が一度でも、政府やスポンサーに都合の悪いことを言ってまで、突き止めようとしただろうか。視聴率が落ちてもかまわないと、真剣に取り組んだ事があるだろうか。

自分は差別に関わっていないと思い込んで、「慈善活動」をするのは楽だろう。
人に同情して涙することは気持ちが良いだろう。
でも、それが何になる。
そんなに泣きたきゃ、玉ねぎでも切ってろ。

<関連>
また「偽善と無駄遣い」の夏がやって来る(24時間テレビ・今年で懲りもせず30回目)
24時間テレビの差別について
24時間テレビは終わったが,障害者政策に終わりはない
「差別をするな」の大合唱の行方


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コメンテーターはなんでも知っている? [メディア]

<お知らせ>
昨日(7月21日)「災害報道は誰のためにあるのか」に関連したニュースを追記しました。
興味のある方は文末をご覧ください。

<本題>
いわゆるワイドショーや、報道かワイドショーか分からない「情報番組」まで、ニュースを伝える様々なテレビ番組にコメンテーターが必須となって久しい。以前読んだなにかの本には、この現象はオウム事件以降、特に顕著になったとの指摘もあるが、なにしろその頃はまだ子どもだったので、私にはよく分からない。
思わず口癖で書いたが、今日はこの「私にはよく分からない」がテーマである。
コメンテーターとなるのは、芸能人やジャーナリスト、学者、弁護士、元検察官など様々である。そういった人々が、あらゆる社会問題や事件情報や政治課題について、実に迅速かつ簡潔に意見を述べることが常態化している。
彼らはいったい、いつ勉強しているのだろうか。取り上げられる内容には、かなり複雑で専門性が必要なものも多い。にも関わらず、コメンテーターの誰一人として「専門じゃないので分かりません」と言わない。それどころか、たかが数分のVTRだけで是非や問題点を判断し、意見している。そして、その意見が「権威ある人の判断」として、ある種の説得力を持って伝えられる。
考えてみれば実にリスキーで乱暴な手法だ。

これほどまでにコメンテーターが重宝されるのには、いくつか理由があると思う。
例えば製作側からすれば、特定のコメンテーターだけで番組作りをすれば安上がりである。毎日放送するタイプの番組で、すべての問題についてそれぞれ専門家を呼ぼうと思ったら、大変な手間と経費だ。いくらコメンテーターに良いギャラを払ったところで、特定のメンバーだけで日々の番組作りを出来れば、そのほうが断然安い。
そして観る側からすれば、よく分からない難しい問題について、素人だから出せる安易な意見や断定を、しかしコメンテーターという権威ある人が言うことで、安心できるのではないか。例えばコメンテーターが「コイツが悪い!」と決め付けて怒れば、自分も一緒に怒ってスッキリ出来る。
コメンテーターが固定されればされるほど、その人の性質(ごく大雑把なイメージを言えば"ミギ"か"ヒダリ"か)が分かってくるから、誰がどんなことを言うか大体は予想がつく。自分が同調しやすいコメンテーターへは過剰に同調し、自分が反発を覚えやすいコメンテーターへは過剰に反抗して、いずれにしてもガス抜きとして利用する。
そこにはお互いに閉鎖的な"ミギ"と"ヒダリ"がいるだけで、なんの発展性も無い。

もしも、毎回きちんと専門家を呼ぶと、どうなるだろう。
まず製作的には時間と手間と経費が、おそらくは今の何倍もかかるだろう。
そして番組内容としては、今まで知りもしなかった深刻な問題点が次々と浮き彫りになり、解決の難しさを予想以上に痛感させられ、安易に断定して「こうだ!」と言ってくれない番組にならざるを得ない。良識ある専門家なら、確実でもないことを断定的に語ったりしないからだ。
おかげで視聴者は、問題の複雑さにぶち当たるばかりで、見終わったあとスッキリってことは皆無になるだろう。
実際に専門家を呼んで問題の深部まで報道しているビデオニュースの視聴者から「番組を観る度に問題の深刻さを思い知り、観るのが辛い」といった意見が寄せられるのも、ある意味では当然のことだ。コメンテーターの無知ゆえの無責任な断定にこそ、多くの人は感情的に救われる。

しかし、世の中は残念ながら、難しくて容易には答えを出せない問題が山積している。数分のVTRや、少々の事前勉強で「社会」やそこで起こる「問題」を把握することは不可能で、だからこそ、コメンテーターは本当なら「分かりません」と言わなくてはならない。
安易な断定は、感情的には私たちを「安心」させてくれるかも知れないが、実際の社会を「安全」にはしない。答えを提供して解決したフリをすることは、問題を長引かせ、より見えにくくさせ、深刻化させるだけだ。
どうしようもない難解さと深刻さを、分かりにくいまま抱え続けることこそが、解決への長い近道ではないのか。


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災害報道は誰のためにあるのか [メディア]

地震についての報道が続いている。九州の豪雨被害は報道されなくなったが、この短期間に収拾しているはずが無い。沖縄の台風についても、その後どうなったのか分からない。みんな、もう忘れてしまったのだろうか。先週の話なのに。
あらゆる報道に共通することだが、直後だけ過熱報道して終わりってスタイルは、いい加減考え直すべきだ。どんな悲劇も、起こった瞬間だけで収まりはしないのだし、時間がたつに連れて深刻化する場合も多くある。どんな問題点があって何をすべきなのかも、即座に分かることはそうそう無い。
一方で、世間の忘却速度が速くなればなるほど、あらゆる問題は放置され続ける。
更に言えば、過熱報道あるところに報道被害ありである。これも、冷静な分析や建設的な提案のためではなく、ひたすら刺激的でセンセーショナルなものを追い求めた結果だ。
事件報道の報道被害については多少知っていたが、災害報道も同じ問題を抱えているようだ。

【伊東沖海底噴火と災害報道】より引用
======================================
 伊東沖海底噴火の場合もその例外ではなく、その最盛期には五〇〇人を越える報道関係者が殺到して、観光客がいなくなった旅館やホテルに、報道関係者の姿ばかりがめだつという状態になった。そして、功を急ぐあまり強引な取材活動を行い、市当局の防災活動を阻害したケースや、被災者や避難者に無神経な取材をして、住民から反発を受けたケースがしばしばあったようである。
 こうした取材モラルの欠如を示す典型的な例が、「朝日新聞」(七月一七日朝刊)の投書欄に載っている。投書者は伊東市在住の七七歳の男性で、連続性微動が発生した一一日夜、不安を感じた住民たちが近くの寺院に避難したところ、そこに報道関係者が押し寄せ、体を休めていた人を起こしてマイクを突きつけたり、就寝していた人に照明を向けたりしたため、かなりの避難者が家に逃げ帰ってしまった。みかねた副住職が警察署に訴え、後に警察が報道関係者に節度ある取材を申し入れた、という事実を書いている。
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災害報道は、世間一般に災害の悲惨さを伝えて援助の機運を高めたり、防災の意識を高める効果もあるだろう。しかし、そのために被災者がないがしろにされてしまっては本末転倒だ。
大きな自然災害があると、必ずといって良いほどヘリコプターからの中継がなされるが、その騒音も実は、助けを呼ぶ声をかき消して生存者の発見を困難にさせるなど、人命救助に悪影響を与えている側面がある。
被災者に迷惑をかけ、防災活動の邪魔をして撮影された映像を見て、私たちは被災者の身を案じる。なんという矛盾だろうか。

刺激的な映像を羅列することが必要なのか。もっと他に伝えるべき内容があると思えてならない。
阪神大震災の際にも言われたことだが、現地で被災した方々が必要としているのは、知り合いや家族の安否情報であり、どこでいつ物資の提供があるかといった身近な情報だ。もちろん、それを全国放送でやる必要は無いし、個人情報保護法のおかげで難しい面もあると思う。
でも、じゃあ全国放送される災害報道はいったい誰のためにあるのか。
一般論としての防災対策を伝えたいなら、避難所ばかり中継しても意味が無い。この地震が与えた社会への問題提起を考えるなら、各地にある原発の危険性も報道すべきだ。自然災害が与える地域住民への影響という意味では、経済的な立ち直りの問題はもちろん、災害地における女性の人権問題なども、専門家を交えて長期的に考えていく必要があるだろう。
しかし、そんな報道は目にしない。
悲劇から学ぶことは大変に重要だ。日本は必ず地震が起こるのだから、悲劇をどれだけ具体的な教訓として生かせるかかが、今後の被害を抑える最大の力であるはずだ。全壊した家屋を映し出して「かわいそうに」などとお涙頂戴してる場合じゃない。

<関連>
言論江湖【暴風に立つだけが災害報道か】
【中越地震2年/過疎克服に多くの知恵を】

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【追記】2007/07/21

<中越沖地震の避難所、テレビ局が隠しマイク仕掛ける>
 新潟県柏崎市内の避難所の1カ所にテレビ局のスタッフが隠しマイクを仕掛けていたいことが21日、分かった。同日になって発覚、市災害対策本部がスタッフにマイクを取り外させ、厳重に抗議した。
 同本部では「精神的に疲労している避難所の被災者に事実を知らせることで不快な思いをさせたくない」として、詳しい経緯は明らかにしていない。
 隠しマイクをめぐっては先月、TBSが人気若手ゴルフ選手の石川遼さんの取材で使用しようとしたとして、問題化したばかり。
 また、同日午後には避難所の1カ所で、住民から取材を控えてほしいとの要望が寄せられ、本部が一時的に報道各社に取材の自粛を要請した。本部では「休んでいる被災者もおり、各社には節度ある取材に努めてほしい」としている。

7月21日22時17分配信 産経新聞


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大事件を決めるのは誰か [メディア]

犯罪は微罪から重大犯罪まで多種多様に存在するが、メディアの扱いは、必ずしも重大犯罪だから大きくなるとか、微罪だから小さいということは無い。いわゆる「社会問題」にしても、深刻で広範な被害が出るから大きく扱われるとか、さして害が無いから扱われないわけでもない。
例えば、ここ数日話題になっているミートホープの偽装問題についても、確かに大手だから被害は広範であるものの、別に毒物が入っていたわけではないし、それによる健康被害があったわけでもない。食の安全という観点から言えば、添加物や農薬のほうが(合法でありながら)よほど広範に渡って実害のある深刻な問題だが、そんなことはメディアでほとんど取り上げられない。
ここには、まずスポンサーとの利害関係がある。食品添加物を批判的に扱えば、ほぼすべての食品産業・外食産業・コンビニスーパーはスポンサーにならないだろう。自分の取り扱っている商品を批判されているのだから、当然のことだ。
このように、スポンサーとの利害関係や、国との利害関係によって、重要でありながら扱われない問題は山のようにある。

一方で、事件の重大性とは無関係に、刺激的な映像があって視聴率が取れるから、との理由で必要以上に大きく取り上げられる事件もまた多い。
少し前、中学だったか高校の教員が下着ドロボーをしたことが、やけに大きく扱われた。確かに、公務員(それも教職員)が性犯罪(?)を犯したのだから、普通の窃盗より大きく扱われるのは当然かもしれない。しかし、それにしたってあまりにも大々的な報道だったのだ。ヘタすりゃトップニュース並みの扱いだった。
これほど大事件として扱われた理由は、おそらくは単純である。「画があったから」だ。
被害者の女性が防犯カメラを仕掛けていたおかげで、この事件は下着を盗むまさにその瞬間が、犯人の顔とともに録画されていた。テレビ的にはこの上なく「オイシイ映像」があったわけだ。渋谷スパ爆発問題も、都心で起きたとはいえ、爆発直後のあの映像が無ければ、ここまで大きなニュースになっただろうか。
また、事件報道など視聴者の感情を喚起しやすい問題も、犯罪の軽重や特異性とは関わり無く大きく扱われる傾向にある。

ここには、いくつかの問題がある。
多種多様な事件・問題がある中で、放送時間も紙面も限られている。さして重要でない(が視聴率は取れる)問題ばかりに放送時間と紙面が割かれれば、他の問題は小さな扱いにせざるを得ない。それが例え、実際にはとても重要な問題であってもだ。
ましてや本当に深刻な問題は説明に時間がかかり、分かりにくく、しかも刺激的な映像を伴わないような「地味」なものである場合が多い。社会システムそのものが起因している場合は特にそうである。数分のVTRを見てコメンテーターが数十秒の解説なり意見を言って次の話題に移る番組構成では、こうした問題の核心を突くことは不可能だろう。
刺激的な映像や証言ばかりが幅を利かせ、地味で冷静な分析が嫌煙される中、扱いのバランスは明らかに崩れていく。そして、重要な問題が議論とならないまま放置されていく。
更に言えば、司法の世界で「世間に与えた影響が大きい」ことから重罰が課せられる現実が出てきている今、メディアが騒いだことが量刑にまで影響してきている。メディアが何を大きく伝え、それによって大きな影響を与えるかは、報道の範囲を超えた問題でもあるのだ。

テレビでニュースを観るとき、新聞を読むとき、少しだけ考えてみよう。
トップニュースや1面に載る刺激的な事件と、数分しか流れないニュースの、どちらが本当に重大なのか。

ミートホープ問題については、後日のエントリー「中国を叩けば食卓は安全か」もご覧ください


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無料メディアの可能性と不可能性 [メディア]

私はテレビっ子だ。起きるとテレビをつけ、帰宅するとテレビをつけ、テレビを見ながら家事や食事や遊びに励む。そういう習慣である。今のメディアがいかに腐りきっていてどうしようもないものであっても、それを分かっていても、憤っていても、見続けるのは何故か。
答えは簡単。「無料だから」
新聞や週刊誌・月刊誌のほうが有益な内容が多いような気がするし、実際そうなのだろう。でも活字メディアは、やはり原則、有料である。一方でテレビは、機材さえあれば無料でじゃんじゃん見れる。ネカフェ難民ですら、テレビのある店を選べばネカフェでテレビを見ることが出来る。

貧困者や弱者にも(視聴という側面では)開かれたメディアなのだから、本当はテレビこそ、貧困問題や弱者問題を積極的に扱うべきだ。もう、毎日が「ワーキングプア特集」でも良いくらいだ。それで週末は毎週「差別問題特集」と「自殺問題特集」を入れ替わりやるんである。
しかし、実際にはもちろん、そうではない。むしろテレビのほうが、一部の活字メディアより盛大に「政府バンザイ!」「経済界バンザイ!」な報道を繰り返している。
お客がタダで見れるということは、メディア側はスポンサー(NHKであれば国の予算)で運営するしかないわけで、だから企業優先になるのは分かる。貧困層がいくらテレビを見て視聴率を上げても、CMに出てくる商品を買える可能性は低いわけだし。
ここにテレビメディアの矛盾のひとつがある。
アウトプットとしては貧困者に開かれていながら、インプットとしては大企業に頼るしかない。そのことが結局、大企業や政府にとって都合のいい番組を生み、それを貧困者に日々見せつけ続けている。そうすることで自己責任論を刷り込んでいく。負の連鎖である。

そこで思いつくのは、ほとんど無料メディアに近いWEBの存在だ。
もちろん通信費はかかるものの、先の例えを繰り返せば、ネカフェ難民でもWEBを見ることは出来る。しかし、ほとんどのWEBニュースは自社で取材をしているわけではないし、逆にちゃんと自社で取材をしているようなところは、まだまだ有料でやらざるを得ない。結局、WEBで見られる公式な(?)無料ニュースはテレビメディアと大差がなくなってしまう。
といって、希望がないわけでもない。WEB上では誰もが情報発信することが可能だから、個人や市民団体など、既存のメディアとは違う立場の人々、端的に言えば利益のためにやっているわけではない人々が、積極的に情報発信をしている。実際、そうした手法で人気を集めているブログも多いし、そこからフィードバックされて書籍化となるケースも出てきている。
テレビにこの先しばらくは成長を期待できそうにない今、もうひとつの(ほぼ)無料メディアであるWEBの進み方は、とても重要なファクターだと感じる。


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