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「不可解な遺書」の真意 [自殺]

昨年10月、「生まれかわったらディープインパクトの子供で最強になりたい」との遺書を残して、自殺した少年のことを覚えているだろうか。
当時、連鎖的な「いじめ自殺」が全国で相次ぐ中、この少年もまた命をたった。その遺書のあまりの不可解さゆえに、私は勝手に少年の幼さを連想し、最後に残した言葉が何故これだったのか、不思議でならなかった。
少年は同級生から酷いいじめを受けていた。その背景からすれば、いじめた相手への恨みつらみや、命を絶たざるを得ないことの悔しさがつづられているほうが、いくらか納得できたからだ。
しかし、この言葉に込められた本当の「背景」を先月24日のニュース記事で知った。
遅くなったが紹介したい。

福岡いじめ自殺>啓祐君の遺影、ディープインパクトと対面(毎日新聞 - 09月24日)

いじめを苦に自殺した福岡県筑前町立三輪中2年の森啓祐君(当時13歳)の遺族が24日、生前あこがれていた元競走馬ディープインパクトに会うため北海道の牧場を訪れた。啓祐君の写真を持って対面を果たした家族。母美加さん(37)は「ずっと息子の夢をかなえてあげたいと思っていた。家族としてひとつの区切りになった」と話した。

 「馬は優しい目をしてるね」。啓祐君がのめりこみ始めたのは中学2年生になったばかりのころ。競馬中継にかじりつき、ジョッキーになりたいと夢を語った。視力が悪く、コンタクトレンズをつけていた啓祐君。「目が悪くてはなれない」と、美加さんにねだってはブルーベリーを食べていたという。

 無敗で3冠を達成し、世界へも羽ばたいたディープインパクト。「どんどん強くなっていってるんだ」と家族に話して聞かせていたという。亡くなる直前は「ジョッキーは無理でも、馬にかかわる仕事がしたい」と調教師を目指していた。

 一方、2年生に進級後、同級生によるいじめもひどさを増したことが分かっている。昨年10月11日、啓祐君は「生まれかわったらディープインパクトの子供で最強になりたい」という遺書を残して命を絶った。

 この日、家族は4人で北海道安平町にある社台スタリオンステーションを訪れた。美加さんは啓祐君の写真を手に持ち、「会えて良かったね」と涙声で話しかけた。息子があこがれた馬を間近に見た父順二さん(40)は「(啓祐君は)ディープのように強くなりたかったのかもしれない。今日は見せてあげられて良かった」と話した。
【高橋咲子、金子淳】

少年の言葉を、自分勝手に「幼さ」だと解釈したことの失礼さ加減を思い知る。
他人には理解しがたい「最後の言葉」であっても、こんなにも生きた証が残されているのか。
この記事からすると、少年へのいじめが激化した時期と、少年が馬にのめりこみ始めたのは同じ時期のようだ。一頭の馬は、少年にとって最後の最後まで、数少ない希望であったに違いない。


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佐藤真が亡くなる社会だからこそ [自殺]

9月4日に自殺によって亡くなったドキュメンタリー映画監督、佐藤真さんの著書「ドキュメンタリー映画の地平」(上下巻)を読んだ。本書は優れたドキュメンタリー映画論として知られ、教科書的な本である。私自身、自殺の問題があったからではなく、純粋に教科書として本書を読む立場にあったため読んだに過ぎない。
本書が書き上げられたのは7年前の2000年。そのとき佐藤さんがどのような精神状態だったのか私の知るところではないが、まさか7年後にこのような亡くなり方をするとは、ご本人も想像していなかっただろう。だから、彼の作品や著作について、この死につなげて考察することは適切でないかもしれない。
それでも、私や著者の意図に反して、本書を読めば読むほど、著者が亡くなったことに思いを馳せざるを得ない自分がいる。
具体的な死の真相については知る由も無い。ただ、本書ににじみ出る著書の人柄を思うとき、「なぜ死んだのか」よりも「誰が死んだのか」を深く考えさせられる。

残念ながら生前お会いする機会はなかったが、自殺を機に出されたいくつかの追悼文や、また本書を読むと、非常に真面目で真摯な方であったことは容易に想像がつく。それは映画制作や執筆活動においてだけではなく、後進の育成に当たる上での真剣な態度からもそう感じる。
本書にしても、その全編に佐藤さんの真面目ぶりと謙虚さ、そして被写体にカメラを向ける「加害者としての自分」への自責の念があふれ出ている。その謙虚さは「あとがき」に特に顕著だ。
「最後まで本書におつきあいいただいた読者の方々には甚だ心苦しい限りではあるが、」
「こんな出版不況の御時世に、上・下ニ巻の、しかも地味で暗いドキュメンタリー映画の本を出版するはめに陥った凱風社の苦境を思うと、冷や汗ばかりが出る。」
と、冒頭から、本書が上下二巻(700ページ余り)の長編となったことについて、読者と出版社への申し訳なさが語られる。
また、ドキュメンタリー映画の実作者である著者が自作を引き合いに出すとき、そこにはいつも、極めて照れくさそうで謙虚な姿勢がある。「あとがき」には「恥ずかしいほど寡作ではあるが、私もドキュメンタリーの実作者の端くれである」といった記述すら見受けられる。
もちろん、実際には佐藤真は日本を代表するドキュメンタリー映画監督の一人であり、「阿賀に生きる」など名作を残している。

この人が、亡くなったのだ。
本書を読み終えて、ため息混じりにそう思った。それは著者の意図に反する失礼なことかも知れない。私自身、死にとらわれることなく、著者が本書で真に論じようとしたドキュメンタリー論にこそ耳を傾けなければならないと思った。そして、その作業も私なりにはしたつもりだ。
けれど、それでも。それでもだ。
やはり私は「この人が亡くなったのだ」という事実に胸をつかまれる。
自殺対策シンポジウムのとき、自らの思いを切々と語った自死遺族の言葉が思い出される。
「あんなに強かったお父さんが生きていけなかった社会で、私はどうして、生きていくことが出来るんだろう。お父さんが生きていけない社会って、いったい何なんだろう」

その問いに向き合いたいからこそ、私は、死なない。


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自殺予防としての「連携」と「敏感」 [自殺]

引越しメディア環境のない中でも、9月11日は自殺関係の記事が出ると思って図書館まで毎日新聞を読みに行った。9月10日は「世界自殺防止の日」でフォーラムなど何かしらのイベントがあると思ったし、毎日新聞は玉木達也記者が自殺問題について力を入れているからだ。
光市事件について書いていたら、この話題を取り上げるのが遅くなってしまった。

PNO法人 自殺対策支援センターライフリンクと東京大学大学院経済学研究科の合同チームが行った「自殺実態1000人調査」中間報告についての記事。
◆自殺した経営者、事前相談は3分の1 NPOと東大調査(2007年9月11日 朝日新聞)
◆自殺対策:「複数要因」7割 窓口の連携重要…NPO調査(2007年9月11日 毎日新聞)
◆「世界自殺予防デー」でNPO法人がフォーラム…連携訴え(2007年9月10日 読売新聞)

調査内容がかなり多岐にわたるためか、同じ調査についての記事でありながら、それぞれ注目点の違う内容になっている。なにしろ質問数が2143もあるようなので、無理もない。
いずれの記事も最終的には、自殺の要因が単一(一つだけの理由)ではない場合が多かったことを紹介し、各相談機関の連携が必要であることを指摘している。

これを見て思い出したのは、昨年の「いじめ自殺」報道だ。2000年に出された「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」というWHOの勧告では「自殺の理由を単純化して報道しない」よう勧告されている。
しかし実際には「いじめられたから自殺した」にとどまらず「前日に服を脱がされたから自殺した」「教師に暴言を吐かれて自殺した」など、一つの出来事のみが自殺の要因・きっかけであるという、かなり断定的な報道も目立った。また責任についても、いじめた奴が、親が、教師が、教育委員会が、悪い!といった単純なバッシングに終始した。
もちろん、過酷ないじめにあって自殺に繋がることはあり得るし、上記のような人々に一定の責任はあるだろう。しかし、こうした報道から「じゃあ、どうすれば死ななかったか」は少しでも見えてくるだろうか。「いじめられっ子よ、強くなれ!」と言ってみたところで効果はない。
今回の調査結果に「いじめ自殺」のケースが含まれているかは不明だが、いじめが自殺要因の一つであっても、その他の要素が無かったのか、どれをどうやってどの程度取り除くことが可能で、どうすれば命を繋ぎとめられるのかを検証する必要がある。
いじめを生み出しやすい教育構造が背景に無いか、いじめが不可避だとしても死ぬ前に周囲が気づく手段は無いか、といったことが考察されなければ、「いじめ自殺」は減っていかない。

今回の調査は、自殺の原因究明と、そこから見えてくる打開策を模索するものである。そのとりあえずの答えの一つが、前著した「相談機関の連携」だ。
問題に気づいている機関や人がいても、そこで情報が止まってしまい、結局は死に至るケースも少なくないことが分かってきた。例えば、うつ病だと診断され、医師から職場での対処が必要だと言われても、それが会社に伝わっていなかったケースなどだ。
人は普通、自分の知人が自殺するとは予想しない。例え知人に死をほのめかされたにしろ、だからって本当に死ぬことはないだろうと、なんとなく思っているものだ。内閣府の調査でも「自殺を口にする人は、本当は自殺しない」と誤解している人が50%を占めている。自殺のサインが出ていたり、現に「死にたい」といった言葉が出てきても見逃されるケースが多いのは、こうした誤解というか「死なないだろうという安心感」によるところも大きいのではないか。
だからこそ、各種の相談窓口や個々人が、死に対して敏感になり、例え気苦労に終わったとしても、具体的なアクションをとることが重要であると感じる。なにしろ、現に毎年3万人は、自殺によって命を落としているのだから。

【お知らせ】
当エントリーで取り上げた実態調査についての番組。
NHK「福祉ネットワーク ~自殺 1000人の声なき声から~」
本放送:2007/09/19(水)20:00~20:29
再放送:2007/09/26(水)13:20~13:49

<関連>
「いじめ自殺」の報道について改善を求めます


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自殺を「語ることのできる死」へ [自殺]

以前ほどではないにせよ、自殺の話題は未だに「タブー」とされている。今でも、実際には自殺による死を、表向きは病気や事故によるものだとしておく事は多いし、オープンな場所で自殺の話題が語られる事は少ない。
このことには、いくつかの問題がある。一つには、自殺が隠蔽される事で「なぜ死に追いやられたのか」を社会が検証出来なくなり、対策・予防策を考える事が難しくなる。もう一つは、遺族がその苦しみや痛みを周囲に話すことが出来ず、自分ひとりで苦痛を抱えむことで今度は遺族が自殺を考えたり、そこまで行かなくても、癒されること無く長い時間を生き続ける。
遺族の多くは、自分の体験を語り、家族の自殺による死を自分なりに理解する事で、納得は出来なくても受け入れ、進んでいく事が出来るとされる。逆に言えば、話すこと自体を禁じられてしまえば、疑問や怒りや悩みを自分だけで抱え込み続け、癒されること無く、苦しみの中で日々を送る。
自殺を減らすためにも、自死遺族が生きていくためにも、自殺が「語ることのできる死」になる事が必要だ。

しかし、その道は険しいものかも知れない。何より、自殺以前に「死」を語ること自体が、私たちには習慣として無い。その作業はどこか、後ろめたさや罪悪感がついて回り、「死」について語ること自体が生命を軽んじているのではないかと思わせる。
だが、「死」についてオープンに話せる事と、命を軽んじることは別である。むしろ、命を大事だと思えばこそ、「死」について積極的に語る必要があるだろうし、「死」から出来る限り多くのことを学ばなくてはいけないだろう。

ドキュメンタリーブリッジ」は自殺問題を扱ったアメリカ映画である。サンフランシスコに架かるゴールデンゲートブリッジは、観光名所であるとともに、世界有数の自殺の名所でもある。本作は飛び降り自殺の瞬間を何度もとらえ、残された人々と、生存者へのインタビューで綴られている。
この作品には賛否両論ある。自殺の瞬間を何度も捉えていることで、「撮影している時間があるなら助けられなかったのか」との疑問や、仮に止めることが不可能だったとしても、それを「興味本位」で撮影・放映して良いのか、と批判が出ているのだ。
確かに、「興味本位」で人の死の瞬間を撮影し、それを表現手段に利用することは規範的に許されないだろう。
しかしだ。 例え監督が映画を取らなくても、ゴールデンゲートブリッジで人々は自殺していく。私たちが見ようと見まいと、自殺者は現に毎年、出る。私たちがそれを見つめることすらしなければ、そりゃ私たちは心地いいかも知れないが、自殺問題は一向に進まない。
そうした姿勢は、ことによっては更に自殺の増加を加速させ、遺族が癒される機会を奪う。

今まさに死のうとしている人々を前に、何も出来ないほど辛いことは無い。もしも、死んだ人がいることすら知らなければ、私たちは不快な思いをせず済むだろう。何も出来なかったことへの無力感を持つことも無いだろう。だが、そうした姿勢が自殺を減らすことも、当然ながら無い。
それが辛い現実であっても、いや辛い現実だからこそ、見つめることでしか「本当の心地よさ」はやって来ないのではないか。

<関連>
ドキュメンタリー映画「ブリッジ」
青い空の彼方 -自死遺族の心の癒しを求めて-


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「命は大切」と叫ぶより大切な事 [自殺]

少し前の話になるが、7月1日の「自殺を"語ることのできる死"へ ~自殺対策新時代 官民合同シンポジウム~」に参加してきた。自殺対策に取り組む多くの団体・個人が参加し、4時間を超える長丁場にも拘らず、大変に中身のある濃いシンポジウムだった。
しかし、一点だけ非常に気になる部分があった。冒頭で紹介された、高市早苗(自殺対策の内閣府特命担当大臣)の挨拶である。
始めは国の責任で自殺対策を推し進めていく決意が述べられ、批判の声もあった削減目標の数値について説明があり、そこまでは、まぁ普通なのだが、締めくくりが意外だった。
「命は先祖代々受け継がれた大切なものです。あなたの命はあなただけのものではありません。何があっても、歯を食いしばって生きていきましょう」(記憶に基づく意訳)と、ようするに「あなただけの命じゃないんだから、自殺で粗末にしちゃいけない」的な内容だったのだ。
ついさっき、「自殺は個人の問題ではなく社会の問題です」と言っていたのに、結局は「死を選んで命を粗末にした本人が悪い」とも取れるような発言で終わった。タカ派と称される議員らしい発言だとは思いつつ、正直、愕然としたし、悲しくも悔しくもなった。担当大臣の認識がこれでは、国の自殺対策の行方が思いやられる。
高市議員は松岡前大臣が自殺したときにも「命は自分一人で得たものではなく、ご先祖さまがつないできたもの。歯を食いしばって生きていかなければ」と、同じ趣旨のコメントをしている。

私は10年近くに渡って、断続的に「自殺願望」を持っていた。「自殺願望」は、文字通りに取れば死にたい願望だが、私の経験からすれば、「死にたい」より「生きていたくない」のほうがしっくり来る。明日も辛い一日が始まる嫌なのだ。絶望的と思える未来が来るのが怖いのだ。
だから、自殺を考えている人に「命は大切だ」などと言っても、意味は無いか逆効果だ。命を粗末に思っているから自殺を考えるわけじゃない。命を大切だと思ったところで、生きることの苦痛(例えば借金やいじめ)が無くなるわけではない。生きることを放棄せざるを得ない(と本人には思える)状態の人に「命を粗末にするな!」と言っても、自分の辛さを分かってもらえないのだと、心を閉ざすだけである。
もちろん、例外はあるだろうし、様々な人がいる。しかし、それでも言えるのは、多くの自殺を予防するために必要なのは、死を禁止するのではなく生を支援する姿勢だということだ。生きていくのがあまりにも辛すぎる「生」が変われば、自然と生きていたい気持ちが沸いてくる。
そして、その「生」を担っているのは社会である。だから「自殺は個人ではなく社会の問題」なのだ。

いじめ自殺の度に流れてくる「命を大切に」を、私はずっと「命は大切だから、いじめなんかで人を死に追いやってはいけない」の意味だと思っていたから、実は「命は大切だから、自殺なんかで粗末にしてはいけない」だと知って驚愕した。
命が大切じゃないと思って死ぬ人間など、いない。仮に「私の命に価値は無い」と思っていても、それは状況によって思わされているだけであって、なんというかストレートな意味での「自分の命に価値は無い」ではないのである。それはどの年齢でも同じことだ。
自殺の原因は、死ではなく生にこそあると理解して初めて、「社会問題としての自殺対策」は、有効な道を選ぶことが出来る。


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JR東海が謝罪すべきは「お客様」だけなのか [自殺]

昨夜、JR東海道新幹線で男性が飛び降り自殺した。自殺した男性は、JR東海の職員であった。
これにより約三万人の足に影響が出て、約三千三百人が車内で一夜を明かした。JR東海は記者会見で「鉄道事業に従事するものとしてあってはならないことで、多くのお客様にご迷惑をおかけしたことをおわび申し上げたい」と謝罪した。

まずは、亡くなった方のご冥福をお祈りしたい。
それにしても吐き気のするニュースだ。ひと一人が死んだことよりも、乗客に迷惑がかかったことのほうが重要視されている。その上、亡くなった人に対して「あってはならない」と責めている。日本には「死者に鞭打つ」という言葉があるように、どういう事情や過去があろうと、死んだ人は責めないって文化があった気がするのだが。(もちろん、それが絶対的に良いことではないけど)
伝えられたところによると、亡くなった男性は今月始めに部署異動したばかりである。
もし仮に仕事の情況が自殺に影響していたなら、JR東海が詫びるべきは、まずは亡くなった従業員に対してであり、残された遺族に対してであるはずだ。しかし、自殺の理由がまったく言及されないままに「迷惑な死に方しやがって」的な扱いである。どうかしている。

その雰囲気の中で思い出したのは、今年2月、同じく電車に飛び込み自殺しようとした女性のことだ。たまたま居合わせた警官が助けに入り、警官は亡くなり、自殺を試みた女性は助かった。かなり大きなニュースになったので、ご記憶の方も多いかと思う。
私は一連の報道を見ながら、ひどく怯えたのを覚えている。
なにに怯えたって、自殺を図った女性へのバッシングが始まりはしないか、ということにだ。「お前が自殺しなきゃ、あの警官は助かった」と、口に出さなくても、多くの人が思っていたのではないか。
そして、彼女がなぜ自殺に走らざるを得なかったかはまったく注目されないまま、この女性はもう死ぬことを許されないだろう。正義感溢れる警官の命を犠牲にして生き残ったのだから、ことによるとフツーの人々よりも道徳的に、よき国民として生きることを強いられるのではないか。私にはそれが怖かった。
賛美される死と、迷惑行為とされる死を作り出す価値観に、気持ち悪さを感じた。

更に連鎖的に思い出したのは、去年だったか今年にやっていたワイドショーだ。青木ヶ原樹海を題材にしていた。まずは「自殺の名所」としての側面がいくつか伝えられ、後半は、樹海でこどもたちに自然の素晴らしさを教えるツアーを実行している、ボランティア団体が紹介された。
そこでボランティア団体の人は言ったのだ。
「こどもたちが自然の素晴らしさ、命の尊さを学ぶ場所で、多くの大人が自殺している。迷惑な話です」
背筋の寒くなる思いだった。しかも、この発言に対してだれも批判しない。
ひと一人の、いや多くの人の死を「迷惑」の一言で片付けられる感性。これのどこが「命の大切さを教えている」なのか理解に苦しんだ。

今回の自殺で影響を受けた新幹線利用者は3万人。
3万人か。日本の年間自殺者数と同じだ。
奇妙な符合を前にして、窒息しそうな息苦しさを、この社会に感じる。


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自殺は「自己責任」なのか [自殺]

昨年11月末にNHKで放送された「ETBワイド ともに生きる」の自殺特集の中で、政治学者である姜尚中が「自殺未遂者との表現は適切ではない。サバイバー(生き残り)と見るべきだ」といった趣旨の発言をしたことが、心に残っている。
確かに考えてみれば「自殺未遂者」とはおかしな言い方である。じゃあ、実際に死を遂げた人は「自殺成功者」なのか。
そう考えてみると、そもそも「自殺」も適切な言葉なのだろうか。もちろん、「自殺」した人々は、少なくとも物理的には"自ら"命を絶っているが、その要因にまで考えをめぐらせれば、多くは多重債務・過労・いじめといった社会的な要因が背後に存在している。いわば自殺者は、社会的な要因によって死に追い詰められた「社会的な殺人」の被害者とも言える。
しかし、例えば「自殺」に代わる言葉として「自死」があり、この言葉は大辞泉によれば「意思的な死を非道徳的・反社会的行為と責めないでいう語。」と定義されており、それは裏を返せば、自殺は多くの場合「非道徳的・反社会的行為」として責めの対象であることをも意味している。

自殺は長年にわたって、特に日本では、個人の価値観の問題とされた来た。同じ(不幸な)境遇にあっても死ぬ人と死なない人がいるのだから、いかなる背景があろうとも結局は個人の選択であって、ようは自己責任であるとみなされ、それゆえに社会的な対策はほとんど取られてこなかった。また一方で、自殺者は「死を選んだ弱い人」とみなされ、自殺者自身もその遺族も、保護されるのではなく責められる対象となってきた。
確かに、同じような不幸(借金・過労・いじめ)にあっても、死ぬ人と死なない人はいるだろう。しかし、その境遇にあれば多くの人が死ぬことが予想される場合、その状況の中での自殺を「個人の判断」として片付けることは出来ない。
以前にも書いたが、自殺者のほぼ半数は失業者や無業者である。また昨今では、就業していても、過労自殺に代表されるような「労働状況の悪化による自殺」も増えている。貧困と労働の問題は、多くの自殺に直結しているだろう。
多重債務者も、そのほとんどは医療費や家計のための借金(貧困による借金)が発端で、一般にイメージされる「ギャンブルで散在して借金を抱える」といったケースはごく少数であるし、仮にギャンブルで散在したことから経済苦に陥ったとしても、それが「死を持って清算するしかない」ような過ちであるはずも無い。
貧困からいとも簡単に借金苦に追いやられ、それを保険金によって清算することが現実に可能な社会システムこそが、多くの自殺を生み出している。

昨年6月に「自殺対策基本法」が施工され、政府が「自殺は個人の問題ではなく、社会の問題」であることを認めたことで、国をあげての自殺対策が始まっている。もはや、自殺の原因を個人のみに押し付けることは許されない。
「自殺」という名の「社会的な殺人」がいかに減少していくのか、自殺大国ニッポンが変容を遂げることを信じ、その動向に注目したい。

【自殺対策基本法】
http://www.lifelink.or.jp/hp/syomei.html
【ETVワイド ともに生きる】
http://www.nhk.or.jp/heart-net/wide/archives.html
(11月が該当部分)


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松岡農水相の自殺に見る、日本的な死生観と責任感 [自殺]

自殺が先月28日だから、もう一ヶ月ほど前のことで、まったくもって今更だ。自分の思考速度の遅さに呆れつつ、同じ問題を考え続けることもまた有用だと思う。
自殺が与えた政治的な影響や、ナントカ還元水に代表される事務所費問題、官製談合事件の問題について、私はよく知らない。しかし、農水相の自殺には、日本の自殺問題を取り巻くいくつかの象徴的な要因があると感じた。それは主に、自殺する人々と、それを取り巻く人々の日本的な死生観、責任感においてである。
「国民の皆様 後援会の皆様」と題された松岡農水相の遺書には、一連の疑惑に対する謝罪が記述された後に「自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます」と綴られていた。
このような「死んで詫びる」死生観、責任感こそ、ハラキリに始まる日本的な価値観で、だから石原東京都知事が「死をもって償った。彼もサムライだったのだと思う」と自殺に対してコメントしたことは、ある意味で実に的を得ている。死んで責任を取ることこそが、まさにサムライ・ハラキリ的な価値観だからだ。
しかしもちろん、「彼がサムライであった」ことと、「それが良きことである」のはまったく別の話である。なにしろ、今は2007年だからな。

日本で自殺した多くの人の遺書には、周囲への謝罪と、自分を責める言葉が綴られているという。
ドラマなどに出てくる「先立つ不幸をお許しください」に代表されるように、多くの自殺者は、実際には社会システムやいじめによって死に追いやられた被害者であるにも拘らず、自分を責めながら命を絶っていく。そして亡くなった後に、遺族が死の原因を探ろうとしても、「死んだ後であれこれ詮索するな」といった雰囲気が周囲を取り巻き、真相究明をすることも容易ではない。
こうして、死によって問題を終わらせる価値観の中で人が死に、現に死後の原因究明がなされないことによって、死による問題の終結が実現される。
このことは、企業などで不祥事が起こった場合に、そのほとんどが、原因究明や問題解決によってではなく、経営者が退陣することで終息していく構図と似ている。その場から人がいなくなることで、問題が「解決」ではなく「終息」することを、日本社会は長きに渡って容認し、支持し、時には要請してきた。コムスン問題がいまだ解明されていない中で、とりあえず折口に退陣しろと迫る声が上がるのも、こうした現象の一つである。

松岡農水相の自殺後、安部首相は談合事件について「捜査当局から『松岡大臣や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行うという予定もない』と発言があったと聞いている」と述べ、談合事件に関する大臣への捜査が行われないとの態度を示した。つまり、大臣の死によって、談合事件の解明を終結させようとした。
このような「死を持って何かを成す」価値観を国家が承認し、利用することの恐ろしさ感じる。
都知事が農水省の自殺を「サムライであった」と肯定したことと、いざとなれば特攻隊員として死んでいくことを賛美する「俺は、君のためにこそ死ににいく」的な価値観は、どこかで相通じているだろう。農水省が遺書の締めくくりとして「安倍総理 日本国万歳」と、まるで戦時下のような内容を書いたことも、彼が「死をもって罪を償った」ことと、同じ価値観の上に成り立っているように見える。
死によって何かを成し遂げうると考える人たちが国を治めるとき、市民の生命は、国家のものではなく市民自身のものとして、認められるのだろうか。

<参考>
【「だめなお父さんでごめんね」ライフリンク・清水代表インタビュー
http://news.livedoor.com/article/detail/1530048/
【朝日新聞ニュース特集「松岡農水相自殺」】
http://www.asahi.com/special/070528/
【立花隆の「"謎の自殺"遂げた松岡農水相 安部内閣が抱える"闇"の正体」】
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070528_yami/index.html


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子どもと老人が死ぬ社会 [自殺]

警察庁のまとめより。
朝日新聞:http://www.asahi.com/national/update/0607/TKY200706070176.html
読売新聞:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070607it05.htm?from=top
毎日新聞:http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070607k0000e040021000c.html

日本は世界的に見ても自殺率が高く、先進諸国の中では群を抜いて高い。アメリカの2倍、イギリスの3倍の割合で人々が自殺に走る国だ。私も親戚のうち2人を自殺でなくしている。
昨年の自殺者数は3万2155人で、前年より1.2%(397人)減ったものの9年連続で3万人を超えた。中でも19歳以下の自殺者数が前年比で2.5%増え、このうち大学生や生徒・児童が2.9%増の886人で、統計を取り始めた78年以降、最多となった。一方で60歳以上の高齢者も2.1%増えた。
また職業的に見れば、全体のほぼ半数が失業者や無業者(ホームレス等)である。
少子高齢化の中で、若者と高齢者が死んでいく。格差社会といわれる中で、金のない人間が死んでいく。
弱い者が死に追い詰められていく社会。それが"先進国"日本。

20代と30代では死因のトップが自殺であり、10代後半と40代でも2位である。若い年齢層は病死が少ないため自殺の死因率が高くなるとはいえ、この状態があるべき姿のはずもない。多くの若者が自殺で死んでいく中で、少子化対策なんて意味があるだろうか。多くの若者が生きづらさを感じ自殺する中で、そんな社会に子どもをたくさん産み育てたいと思う人がどれだけいるのか。
昨年はいわゆる「いじめ自殺」報道による連鎖的な自殺が起きたため、学生の自殺が増加したと思われる。教育再生会議は学力やモラルの向上を図るのもいいが、学校の変革が必要だと考えるなら、何よりもまず「死ななくても行ける場所」にすることが先決ではないのか。もしくは「死ぬくらいなら行かなくて良い」をもっと認めるべきじゃないのか。

さて、厚生省のまとめによれば、我が島根県は全国で3位の自殺率(31.7人/10万人)である。他の3県が秋田岩手山形東北地方に集中する中で、いきなり中国地方である。なにか特殊な事情があるように思えてならない。隣の鳥取県では自殺者が11人減っている中で、島根県では去年より214人も自殺者が増えている。

多くの人が死んでいく中で、学校制度は回り、金融業者は利益を上げ、医療と福祉は困窮する。
このままで良いハズが無いんだ。


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