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セケン様とか、そういうの [総論]

あまり恵まれたネット環境にないので(今日もネカフェです)、サラッと雑記的なものを更新します。
コメントを返せなくてすいません。

橋下弁護士の主張に代表されるように、ネット上では得体の知れない「世間」を名目にした批判が、とても多い。こうした主張をする人は「遺族感情」を名目とした主張をする人とだいたい同じ層のようにも思う。
橋下弁護士のブログにしろ答弁書にしろ、出してくる文書には相変わらず「世間の風」が多用されている。懲戒請求問題で引き合いに出される「世間」が何物であるかについては、モトケンさんのところで非常に適切なコメントを引用していらっしゃるので、一部孫引きしたい。
http://www.yabelab.net/blog/2007/09/26-095640.php
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一方、社会一般と一口に言いますが、この実態はなんでしょうか?
「この事件における社会一般」にはとりあえず法曹は含まれないようです。政治関係者も含まれていないように思います。被告人を罰する前に議論を尽くすべしと考える人も含まれていないようです。この事件にそもそも関心の無い人も含まれていないでしょう。少なくとも私も含まれてはいないようです。

こうやって実態を考えていくと、「社会一般」とは実は「この事件に関心があって、法曹(政治)関係者でもなく、被告人を議論の余地無く厳罰に処すべしと考えるグループ」であるようです。

こんなグループの正義と、日本の平均値の正義が乖離しているのは、考えるまでも無く当たり前なのではないでしょうか。一致するはずがありません。

他方、この(論無く厳罰に処すべし)グループに属する人々は自らのグループ分けを厳密に成すことなく、自らのグループを「グループ:(日本-法曹関係者)」と表現しているような節があります。
 論に言及するときは異論を挟む人間や無関心な人々を排除しながらも、勢力に言及するときには排除した人間も含めるという、おかしな形態になっているのです。
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で、つい5分ほど前に「あぁ、そうか」と気がついたのは、私がこうした「世間は~」論に強い違和感を持つ根源に、きわめて個人的な人生経験からくる感情があることだ。
私はずっと「世間様」から阻害される立場にあった。
その「世間」は時に「正義」や「常識」を名乗るわけだが、身体障害者で学校にも行かず母子家庭で育ち、10代の頃に同姓と付き合ったこともある私は、いつもその枠からはみ出し、「世間様」や「常識」に繰り返し糾弾されて来た。
例えば「身体障害のある人ほど純粋で頑張り屋」との「常識」からはみ出して「同情できない」と言われ、「学校に行って当たり前」との「常識」からはみ出して「甘えてるだけの怠け者」と言われ、「両親がそろっていて当たり前」との「常識」からはみ出して「愛情を知らない人間に育つ」と言われ、「女は男(だけ)に惹かれる」との「常識」からはみ出して「同性愛なんて異常だ」と言われた。
ありとあらゆる「正義」と「常識」から、そしてそれらの言葉を発する「世間様」から、私はいつだって零れ落ち、それ故に攻め立てられてきた。
その結果、10年にわたって「自分に生きる価値なんてない」「私みたいなやつがいるから社会がダメになるんだ」と妄想的なまでの自己否定にさいなまれ、自殺願望を持ったり、リストカットを繰り返したりした。
私にとって「正しい世間様」は、いつも私を排除し、殺そうとする何者かだった。

だから死刑制度についても、私は本当は制度そのものよりも、それを支持する「悪いやつは殺されて当然」との「社会的な正義感」にこそ恐怖を覚えているのかもしれない。私は多くの場合、社会的に「悪いやつ」とされる場に立ってきたからだ。
「いつか社会によって排除され、殺されるかもしれない」という恐怖心は、今なお、私にとってリアリスティックで身につまされる感覚であり続けている。


「信じる」という不合理な行為の可能性 -今枝ブログによせて- [総論]

光市事件の弁護人の一人である今枝弁護士のブログは盛況だ。まだ開設して数日にも拘らず、記事によってはコメント数が上限の100を超えているものもいくつかある。厳しい文字数制限のために長文を分割して投稿している面があるにせよ、賑わっていることは間違いない。
その中で、とても感動的な事態が起こっている。
遺族感情や「世間」を理由に弁護団(と管理人である今枝弁護士)に批判を重ね、周囲がいくら反論しても耳を課さないように見えていた投稿者の態度が、変わり始めているのだ。
当初、彼(彼女かも知れないが)はブログにあげられた資料=弁護団の提出した事実をニュートラルに検討することをほとんどせず、「事実がどうだろうと、世間も被害者も許さないんだから当然死刑」という態度に見えた。
周囲の人々が弁護団の主張をいくら丁寧に説明しようとも、また司法制度・弁護士の役割を説明しようとも、理屈はともかく許せんもんは許せん!という頑なな態度に見えた。

私は正直、さっさと削除して投稿を制限してしまえばいいと思っていた。
こういう人はいわゆるガチの人であって、説得になど応じないし、事実になんて興味は無いし、例えいかに反論が適切であっても、自分の正義・信念を曲げない。相手が非を認めて「私が悪うございました」と述べるまで、身勝手な批判を繰り返すだろうと感じていたからだ。
ところが事態は変わりつつある。
弁護団の主張に対し疑問を投げかけ、批判的であることは今も変わらない。しかし、その態度は以前のようなものではなく、弁護団の主張に対する素直な疑問へと変容している。つまり私から見れば「マトモな批判」に変わって来ているのだ。
これについて、今枝弁護士も、一時は彼(または彼女)と激しいやり取りを繰り返していたモトケンさんも、率直な喜びをコメントしている。

私はここに、いわゆる「囚人のジレンマ」にも通じる「信頼」の問題に対して、深い示唆を勝手に読み取る。
人を信じることはとても不合理だ。なぜなら、人は裏切る。それは決して珍しいことではない。相手が変わってくれることを信じ、いくら真摯に説得しようとも、そんな期待はいくらでも裏切られる。
だから、自分の利益を合理的に追求すれば、裏切るかも知れない相手など信じず、その存在を排除してリスクを減らすほうが合理的だ。相手を信じて裏切られたときの不利益は、決して小さくない。
しかし、一方で「信じない」という合理的な選択は、人々を互いに疑心暗鬼にさせ、排他的にさせ、常に裏切りと排除の恐怖にさいなまれる不利益を生む。
そこから抜け出すためには、あえて「信じる」という極めて不合理な選択をするしかない。
もちろん、裏切られるかも知れない。でも、裏切られないかも知れない。どちらにも確証は無い。
もしも、互いに裏切るかも知れない存在である私たちの、双方に幸福が訪れるとすれば、それは人々が互いを信じ、現に裏切られない、という性善説としか言いようの無い「お気楽」な情況でしか成立しない。
しかし、その「お気楽」な情況もまた、現に生まれることがある。

※黒文字部分の「」は私の主観であり、実際のコメントを引用しているわけではありません。


暴力はマイノリティを救うか [総論]

通称「赤木論文」が話題になったのは、もう結構前の話だ。特に取り上げる必要も無いと思って放置していたが、雨宮処凛のオールニートニッポン第9回を聞いて思うところがあったので、遅まきながら取り上げたい。
といっても、今回オールニートニッポンに出演していたのは赤木氏ではなく、革命的非モテ同盟の書記を勤める古澤氏だ。番組内での言動から推察すると、古澤氏は赤木氏に対して批判的な印象を受けた。だが私は、この二人の「意図せざる共通点」にこそ注目したい。

雑誌「論座」に掲載された、赤木論文と呼ばれる文章の概要はこうだ。
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赤木氏にとって「平和」とは、現在の社会的・経済的な立場の固定を意味する。
その「平和」の中で、31歳フリーターである自分に生涯チャンスは訪れず、貧困から脱するのは不可能だ。しかし、戦争が起これば社会は流動化し、フリーターにも立場逆転のチャンスがめぐってくる。例えばかつて、政治思想家の丸山眞男が軍隊に入った際、自分よりも学歴の低い一等兵にひっぱたかれたように。
現在の固定化した貧困層の立場を覆せるチャンスが「戦争」にはあり、だからフリーターにとって、「希望は戦争」なのだ。
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さて一方で古澤氏は、連帯についてこう述べる。こちらも概要だけ紹介しよう。
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非モテもニートも、弱者ではない。何故なら、だれもが人を殺せる程度の暴力行使能力があり、「人を殺せる確信」があるからだ。
国家は結局のところ暴力装置であって、民衆一人一人の暴力を結集することで大きな力を持つ。
しかし、国家が結集しているその能力は、本来は民衆一人一人の自分のものなのだ。人を殺しえる程度に強い我々は弱者ではないのだから、民衆が連帯すれば力になり、社会を変える事も可能だ。
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彼らのようなマイノリティ(非正規雇用者・非モテ者)が苦境に立たされているのは事実だろう。貯金のあるニートの私より、赤木氏のほうがよほど不幸で苦労人だし、モテに関しては私も勝ち組とは言えないものの、「恋愛至上主義粉砕!」とか叫ぶほど行き詰ってもいない。
そして、彼らの抱える問題が個人だけではなく、社会的な問題と関わっている事も否定しない。
けれど違和感を覚える。彼らはそれぞれ異なる問題意識を持ち、異なる立場におり、実際の主張・活動も異なっていながら、その源泉には同じもがある。それは「暴力行使能力への自信」だ。
赤木氏は「暴力行為によって社会的立場を覆せる」と考え、戦争という暴力行為に参加することで、自身の救済を望む。例え戦死しても、フリーターとして惨めに死ぬよりも、英霊として靖国に祭られたほうがマシだとも言う。一方で古澤氏は「暴力を行使できる能力と自信があるからこそ、私たちの連帯は社会を変え得る」と言う。
正直なところ「健常者の男の子って、幸せでいいなぁ」としか私には思えない。

私は身体障害のある女なので、自分が暴力を行使できるという自信など微塵もない。むしろ暴力を行使されることへの恐怖のほうが、よほど根源的なものとして身体に染み付いている。
私(のような人間)は戦争になれば真っ先に殺されるだろうし、いかに戦争バンザイと思っても徴兵すらされず、戦場に行くことは出来ない。出産もできない体なので、「産めよ増やせよ」に参加する事すら不可能だ。
戦争になれば、思想信条を問わずその身体性だけで、私(のような人間)は間違いなく「非国民」である。だから私には、戦争による立場逆転はありえず、どんな死に方をしても靖国に祭っていただける事も無いだろう。
また、いかに殺意があっても、古澤氏が前提としている「だれもが保有している、人を殺すくらいの能力」を、私は幸か不幸か保有していない。少なくとも自分ではそう思っている。だから古澤氏の理屈で言えば、私には「強者であるが故の連帯能力」は無いのだろう。

彼らのに苦境を決して軽視しないが、それでも尚、私には彼らの言葉が「幸せな絵空事」に思える。彼らの言う希望も連帯も、結局のところ、健常者で、出来れば男で、高齢者ではない、戦闘能力を保持した人間にしか開かれていないからだ。
それは、正規雇用者にしか安定収入が開かれていないことや、モテる人間にしかある種の「尊厳」が開かれていない事と、私には同じように見えるのだけど。

<関連>
オールニートニッポン「若者たちの"心の病"と"非モテ"問題」
オールニートニッポン「フリーターの"希望"は戦争か?」
戦争は“希望”なのか?


懐疑本が売れるワケ、映画「A」が流行らなかったワケ [総論]

環境問題についての、いわゆる「懐疑本」がブームだ。地球温暖化は実は問題じゃないとか、ダイオキシンは怖くないとか、リサイクルは環境に悪影響だとか、非常に分かりやすく言えばそういう本である。
書店に行くと「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」が山ほど平積みで置いてある。アマゾンでも、「ダイオキシン」「地球温暖化」「リサイクル」などで検索すると懐疑本がとにかく上位に出てくる。
私は環境問題の専門家じゃないし科学者でもないので、実際どうなのか判断できる能力は無い。
むしろ興味深いのは、懐疑本が何故こんなに売れるのかということだ。

メディアは基本的に恐怖が売りである。北朝鮮でも凶悪犯でもテロでも、とにかく怖い!危ない!と言い続ければ視聴率が上がる。地球温暖化もつい最近までは、映画「不都合な真実」ブームに乗って報道番組が特集を組んだり、バラエティーにアル・ゴアが出てみたりといった具合で、「温暖化ってこんなに怖いですよ」との喧伝がなされた。
しかし、この「恐怖が売り」には、実はもう一つ仕掛けがある。メディアで提起される「恐怖」のほとんどは、私たちにも加害性があるとの結論には決して達しないのだ。

例えばオウム事件のとき、数年にわたってメディアはその報道一色となったが、すべて「オウムは狂信的で理解不可能な悪魔」としか伝えなかった。一方で映画「A」「A2」のような「私たちにも共感可能なのに凶悪犯」である一面は一切タブーとされ、観客動員もままならなかった。
映画「A」は、私たちにも共感可能なフツーの人間としてのオウム信者の姿を捉える一方、それにも拘らず尊師の命令があれば殺人もいとわない彼らの姿も同時に伝える。なぜフツーの人々である彼らと、私たちには想像不可能な殺人集団(になり得る集団)としての側面が両立するのか。私たちは混乱する事になる。
そして「A2」に至っては、オウム信者を取り巻く現状を描く事で、私たちの地域社会にこそ疑問を呈している。2作を見ると、私たちはどうしたって「確かにオウムはおかしいが、もしかしたらそれを生み出す私たちの社会もおかしいのではないか」との想像にたどり着かざるを得ない。
けれど、それは私たちにとってまさに「不都合な真実」だ。自らに加害性の一端がある事を想像しなくてはならず、悲劇を繰り返したくなければ、単に実行した人々を厳罰に処すだけでは解決しない。私たち自身が、私たち自身の社会を見直すことが求められる。それは現状の否定であり、つまりは私たち自身の反省を促すものだ。
目の前には紛れも無い悲劇がある。無かったことには出来ない。だが、その現況について自身を振り返るのは、あまりにも面倒で苦痛だ。
では、悲劇が起こった事を認めつつ、しかし自分を責めないために出来ることはなにか。
「うちらとは関係ない人が勝手にやった事」にしておくのが、一番都合が良い。自分たちの社会とは分断された別世界の、まったく共感不可能な人々が、まったく共感不可能な価値観・ロジックの元に罪を犯した事にしておけば、私たち自身はなんら反省することなく生きていける。
オウム事件に対して多くのメディアと市民は、意図的にであれ無意識にであれ、その道を選択した。

環境問題の話に戻ろう。環境問題は、いわゆる凶悪犯罪よりもかなり明確に、「私たち自身の加害性」を認めざるを得ない分野だ。私たちが今行っている経済のあり方や、生活様式や、考え方、価値観が根本的に見直されない限り、解決の道はないだろう。
それはとても面倒で苦痛なことだ。エコバックを買うくらいはいいとしても、それ以上はちょっとねって話である。
しかし、ことは科学だ。「有害である」「危険である」と100%証明することはほとんど不可能に近い。つまり場合によっては「無い事」に出来てしまう分野なのである。
そこで私たちに「救い」をもたらしてくれるのが懐疑本だ。
「ダイオキシンなんて怖くない」「温暖化なんて起こらない」「リサイクルなんてしなくて良い」との、科学の権威をまとった主張の数々は、私たちの現在をすべて肯定してくれる。今のまま消費しまくって適当にゴミを捨てて良いですよ、と言ってくれる。嬉しい。そして楽だ。だから売れる。

懐疑本を支持する人の多くは「環境問題は狂信的な科学者が捏造してるだけで、本当は怖くない」と言う。「実は環境問題なんて起こっていない、という事こそが多くの科学者にとって”不都合な真実”なのだ」と言う。だから環境問題は、実は起こっていないのに、科学者が自分の利益や名誉のために作り上げているのだと。
確かにそういう事も起こり得るだろう。
けれど、では私たち自身にとって、「不都合な真実」は一体どちらだろうか。
私たち自身が反省せざるを得ない「深刻な環境問題」という真実なのか、私たち自身を肯定してくれる「懐疑論」なのか。答えは言うまでも無い。
自分にとって好都合な可能性は、私たちを「安心」させてくれる。しかし一方で、自分にとって不都合な可能性を見つめる事によってしか、私たちの「安全」はやって来ないのではないか。

<関連>
ビデオニュース「ダイオキシン問題は終わっていない」
映画「不都合な真実」
懐疑論に反論記事が出た
地球温暖化への懐疑論に関する考察


罪を犯して、自殺する人々 [総論]

おにぎり万引きして自殺(スポーツ報知)
東京都渋谷区幡ケ谷のスーパーで3日午後9時半ごろ、万引きをしようとしてほかの客にとがめられた男性が逃走し、取り押さえられた際にナイフで自分の胸を刺して死亡した。警視庁代々木署は自殺とみて男性の身元を調べている。男性は40~50代とみられるが、財布や携帯電話を持っていなかった。盗もうとした品物も、パンやおにぎりなど約1000円相当だったという。(後略)

万引きで自殺。しかも約1000円相当の被害額。
いや、被害額が多ければ自殺しても良いとか、もっと重い犯罪なら死んで当然ということでは断じてない。ただ、それでもやはり「たかが1000円」だ。今時、小学生だってもう少し小遣いをもらってる。その中で、「たかが1000円の万引き」という微罪が、なぜ彼を死に追いやったのか。
今回のケースは特殊であるものの、このように、犯罪を犯した人がその直後に自殺するケースが、どうも目に付く。昔からこんなに多かったっけ?と、少し前から疑問だった。
ざっと検索してみたら
水戸の暴力団幹部刺殺:重体の男性死亡 容疑者、自殺図る /茨城(8月2日)
暴力団員射殺で再逮捕 町田立てこもりの組員(7月30日)
<札幌銀行>自殺した元行員、不正な保証料2500万円詐取(7月27日)
嘱託殺人の男性逮捕(7月21日)
母が娘の首切り、自分の首を切る 川越(7月13日)
約一ヶ月で、今回の万引きを入れれば、報道される範囲の中では6件が、罪を犯した後に自殺を図っている。
もちろん事件数の全体からすれば比率は非常に低いし、実は昔から頻繁にあったけれど、報道されるようになったから増えたと感じるだけなのかも知れない。

しかし私は、この背後に社会から寛容さが失われている事があるように思えてならない。
確かに、古くから「犯罪者」や「前科者」は社会から受け入れられ難かったし、それが殺人のような「凶悪犯罪」であれば尚の事だ。だが、そのことが、事件の直後に死を選ぶほどの絶望感に直結しただろうか。厳罰化に象徴される「一度失敗したら終わり」という社会の漠然とした雰囲気が、現に失敗を犯してしまった人々から、生きる道を奪っているように思う。
確かに犯罪は罪だ。当たり前だ。人を殺した奴に生きる権利など無い、との考えもあるだろう。
だが、こうした風潮が奪っていく「命」は、本当に「死んで償わなければいけないほどの犯罪」を犯した人々のものだけだろうか。

彼・彼女らが、逮捕の恐怖ゆえに自殺したのか、罪の重さに耐えかねて自殺したのか、もっと他の理由なのか、それは人によって違うかも知れないし、私には分からない。
けれど、罪を犯した事で生きる道が閉ざされる(と思える)社会は、誰にとっても、何かしらの失敗によって生きる道を閉ざされる社会であると思う。つまりは、誰にとっても「失敗を許されない窮屈な社会」なのではないか。
失敗した人を糾弾する事で、私たちは自分自身も、決して失敗を許されないのだろうと知る。他人への寛容さを失うことで、自分が寛容に受け入れられる場所も失っていく。
ひどく狭くて息苦しい場所に、私たちは自分の手で自分を追い込んではいないか。

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<関連ニュース>【追記】2007/08/07
栃木保険金殺人 自殺した夫「潔白」遺書 弁護士から聴取(8月7日 産経新聞)
栃木県さくら市の小林はるみさん=当時(41)=を保険金目的で殺害したとして逮捕され、自殺した夫の小林広容疑者(58)の遺書が、宇都宮中央署留置場の畳の下から見つかったことが7日、分かった。自殺直前に接見していた弁護士が明らかにした。
 弁護士によると、遺書は弁護士あてで、はるみさんの死亡と平成16年のはるみさんの二男=当時(7)=の転落死について「潔白だ」と書かれていた。小林容疑者は接見の際「はるみと二男が墓で眠っているので一緒に入りたい」と話していたという。
 県警は自殺時の詳しい状況を調査。接見の終了は、弁護士が呼び鈴を押したり、容疑者自身が面会室のドアを開けたりして留置場担当の署員に伝えるが、弁護士は呼び鈴を押さず、小林容疑者も接見終了を知らせなかったという。県警は当時の状況を弁護士や署員から聴き、約1時間半も面会室の様子が確認されなかった理由を調べている。
 県警によると、小林容疑者は留置場で三食とも残さず食べ、夜もよく寝て、変わった様子はなかったという。
 小林容疑者は6日午後7時45分ごろから、宇都宮中央署3階の面会室で弁護士と接見。留置場担当の署員は、接見時間が長いと感じ午後9時15分ごろ、様子を見に行くと、小林容疑者は首をつり死亡していた。弁護士は午後8時ごろには署を出ていた。
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複雑化する「権力」と「弱者」 [総論]

先日、朝日ニュースターの番組で、光市事件について扱っていた。と言っても事件そのものではなく、事件の影響による弁護士バッシング問題を扱っていた。弁護団への脅迫が相次いでいること、マスメディアが弁護士へのバッシングを煽っていることなどに強い疑問を呈する内容だった。
テレビ報道が弁護士を圧倒的に叩いている中、勇気ある態度だと思うと同時に、いわゆる"ヒダリ"の限界もまた感じた。
レギュラーメンバーである女性の一人が、こうしたバッシングに対して「権力側を批判せず、弱いものばかり叩いてる」と発言していたからだ。これが昨今、"ヒダリ"や"リベラル"が叩かれる理由と、それを容易には覆せない理由を象徴している。

弁護団を批判している人々は、自分が「弱いものを叩いている」などとは思っていない。
実際、ネットで弁護団批判をする人の多くに見られるのは「被害者遺族は一人で戦ってるのに、加害者は20人を越える弁護団を結成して、大人数で被害者を侮辱している」的な内容だ。彼らは悪人を叩く事をまず正義だと思っているし、自分たちは弱者を救済する正義だと思っている。彼らにとっては、加害者側・弁護側こそ「権力を持った強者」と映っているのだ。そこに"ヒダリ"の人々との認識の開きがある。
こうした世界観は、いわゆる2chウヨクのそれと共通している。
彼らも障害者を差別したり、外国人を差別するとき、弱者を叩いているとは思っていない。むしろ、弱者である事を盾にして権力を持っている、権力側の人間を批判する行為だと感じているだろう。
このことは、一定の時期、いわゆる"ヒダリ"的な価値観に社会が呼応し、支持してきた歴史が前提にある。その中で、現に(例えば同和利権に見られるような)弱者への度を越えた優遇が批判され始めたにも関わらず、メディアがそれを取り上げてこなかった。そのことへの疑問や反発が、今の2ch的差別問題の源泉のひとつであると思う。
だからこそ彼らは、自分たちは権力に反抗していると思っているし、自分をメディアに載せられない人間だと思ってもいるだろう。かつてと同じように障害者や外国人や犯罪者が差別されていても、その裏にあるのは、以前より少し複雑なロジックではないのか。
何が権力で、何が弱者なのかという認識が複雑化してきている。

しかし、それに対してやはり疑問に思うのは、この世界観からは、「国家権力」や「メディア権力」の要素が抜け落ちている場合が多いからだ。
光市事件にしても、確かに加害者と被害者だけを見れば、加害者は圧倒的な強者である。まず殺害というこれ以上ない暴力を行使しており、裁判で公的に発言を許され、20人を超える弁護団に守られている。一方で被害者は、家族の命を奪われ、裁判にも参加できず、権利を守ってくれる弁護士もいない。
まさに「加害者の権利ばかり守って、被害者の権利が守られていない」だろう。
だが見落としてはならないのは、裁判には検察という国家権力が参加していることだ。裁判は少なくとも制度上、被害者vs加害者ではなく、国家権力vs被告人が対決する場所であり、弁護士は被害者から加害者を守るのではなく、国家権力が被告人の権利・利益を奪う事を防ぐ仕事である。
それを抜きにして、つまり国家という絶対的な権力の存在を無視して、加害者側が「強者」であると認識する事は思い違いとしか言いようが無い。加害者は被害者に対して「強者」であると同時に、メディアや国家に対して「弱者」なのであり、だからこそ弁護士が必要だし裁判が必要なのだ。
もしも加害者を弁護する人間がいなくなれば、容疑者はメディアによって有罪化され、検察の主張する通りに刑が確定し、冤罪や誤判(事実に即していない誤った判決)がいくらでも出る。

いったい誰が誰にとって強者で、誰が誰にとって弱者で、何が権力なのか。国家権力とメディア権力を視野に入れた上で、もう一度、見渡してみる必要があるだろう。


良い弱者、悪い弱者 2 [総論]

「良い弱者、悪い弱者」続き

時代が進むに連れ、いわゆる「弱者」の間でも考えや立場は多種多様になってきている。金持ちもいれば、貧乏人もいれば、幸せな奴もいれば、不幸な奴もいる。その事(自分が少数派である部分)に重きを置かない人もいれば、その事に人生をかけている人もいれば、そんな事は忘れたい人もいる。
例えば障害者だからといって、病気の事ばかり考えて生きているわけではないから、弱者の中にもそのような多様性が生まれてきた事は歓迎すべきだとは思う。
だが一方で、その事が当事者の団結や連帯を難しくし、差別問題は大きな動きにならず、問題解決は遅々として進まない。

そんな中で、差別問題に関心を持つ当事者の攻撃対象は、むしろ内側に向いてしまう。前回述べた「良い弱者」「悪い弱者」というラベリングを当事者自身が生み出すのだ。
「私はちゃんとしてるのに、(同じ弱者の中にいる)ちゃんとしてない人が世間の評判を落とすから、私まで差別される」という論理はあらゆる弱者問題に共通して見られる。
非当事者である世間は、道徳的に良くない(とされる)一部の当事者だけを見て差別しがちである。例えば、実際には純粋で仕事熱心な同性愛者がいても、そうしたイメージより浮気モノで遊びまくっている同性愛者像が先行して、それを根拠に「あんな奴らに権利はない」と言ったりする。
その意味で言えば、確かに「一部の不良弱者が、優良弱者の権利まで妨げている」かも知れない。

しかし、そんなことは問題の本質ではないはずだ。
人格が優良だろうと不良だろうと、社会的に少数派である事を理由に就職が左右されたり、居住が左右されたり、結婚が左右されたり、尊厳が左右されることがそもそも間違っている。どんな人格の弱者であろうと、弱者である事を理由に差別してはいけないんである。
その事が日本ではなかなか理解されず、だから、その人たちの権利が正当であるかどうかが議論されるよりも、人格を見て「良いか悪いか」が判断される。
結局のところ日本での弱者救済には、すべての人が権利を有して当然、という前提が当事者からも欠けているのではないか。権利の平等性からではなく、あくまでも上から「俺らが良いと思った奴らは、かわいそうだから救ってあげる」的な姿勢だからこそ、「俺らが良いと思うかどうか」が大きな影響力を持ってしまうのだ。

当事者間の対立を見るにつけ、私はその度に悲しくなる。
もちろん、気持ちとしては大変によく分かる。自分がどんなに努力して善良な市民でいても、一部の努力してない(ように見える)人々のおかげで、自分の権利までも奪われてしまう。そんな理不尽な事はない。その中で当事者同士が分断し、対立していくのは仕方のない事かも知れない。
けれど、そこで立ち止まって、もう一度考えて欲しい。本当に問題なのは、世間の評判を落としている「不良弱者」なのか、優良だと思わなければあっさりと権利を奪ってしまう、社会の側なのかを。


良い弱者、悪い弱者 [総論]

犯罪被害者である原田正治さんが、死刑に疑問を呈する活動をする中で、「お前みたいな奴は悪い被害者だ」と、攻められたエピソードがある。
厳罰を望む被害者を善とするにせよ、加害者を許す被害者を善とするにせよ、非当事者が「望ましい被害者」を作り上げること自体が傲慢だと私は思うが、たいていの場合、社会は弱者を無条件には救済しない。自分の望む弱者しか許さない。
社会が「弱者」を救済しようとするとき、そこには必ずと言って良いほど「救済すべき良い弱者」と「救済の必要が無い悪い弱者」が作り上げられる。

まぁ、これは「ブスなら性格ぐらい良くなきゃどうしようもない」とか、そういったアレと同じ低レベルな話なのだけど、そう言って笑ってもいられない。あまりにも影響が広範で強いからだ。
例えば、ひたむきで純粋な障害者は認められても、私のような怠け者で屈折した障害者は認められない。純真で一途な同性愛者は認められても、浮気者で優柔不断な同性愛者は認められない。日本に強制的に連行された在日は認められても、進んで日本に来た在日は認められない。善良な黒人は認められても、素行の悪い黒人は認められない。HIV訴訟の際にも「薬害でエイズになった人はかわいそうだけど、性感染でなった人は自業自得」といった論調があった。
本当に、ありとあらゆる弱者問題、差別問題において、この「良い弱者」「悪い弱者」というラベリングは機能し続けている。そして、このラベリングが、現に救済されるかされないかを左右してしまう。

更に言えば、こうしたラベリングが引き起こすのは、単に「悪い弱者」とされた人々が救済されない事だけに留まらない。「良い弱者」が救済される事で、さも差別問題が解決したように思われ、どんなに弱者が「差別するな!」と要求しても「そんなの過去の話でしょ」と門前払いを食らうのだ。
それが正当な要求であっても「もう救ってやったのに、まだ贅沢言ってる」と思われてお仕舞いになってしまう。
実際には多くの問題が残り、多くの弱者が困窮していても、一部の弱者を救済した事を理由に「終わった問題」とされていく傾向がある。昨今、まだまだ多岐に渡る差別が残っているのに、差別問題というとどうにも「古い話」のように思われてしまう理由の一端がここにある。

もうひとつ、こうした問題が深刻なのは、実はこの「良い弱者」「悪い弱者」というラベリングを、当事者である弱者自身もしてしまいがちだと言うことにある。

長くなるので次回に続く。


恐れるべき相手は誰か [総論]

萱野稔人著「カネと暴力の系譜学」を読んだ。カネと暴力の構図を通して、社会の成り立ちを本書は考察している。
例えば、国家が<暴力への権利>を独占している=戦争、違法者の身体拘束・死刑などを通じて、国家のみが合法的に暴力を行使できる、ことの理由について、このように述べられている。
 - つまり、国家が<暴力への権利>を独占しているのは、社会における他のあらゆる暴力を圧倒し、<違法な>行為を取り締まるだけの物理的な力をもっているからにほかならない。要は、社会のなかでもっとも強いから、ということだ。 -
まぁ、そりゃそうである。違法を規定している国家のほうが、違法な他の暴力よりも弱ければ、つまり取り締まる側よりも取り締まられる側の方が強ければ、そもそも取り締まり自体が成立せず、違法であることは何の意味も持たない。そして本書でも述べられているように、国家だけがこのような<暴力の権利>を独占しているのは、別に国家が(道徳的に)正しいからではなく、単純に「一番強いから」でもある。
そう考えれば、その「<暴力への権利>を独占している国家」が暴走することこそ、もっとも恐ろしいと言えるだろう。なにしろ、それは「正しいかどうかはともかく、もっとも強いものの暴走」を意味するからだ。
その暴走を防ぐためには、当然ながら市民による国家の監視が必要であり、市民は、国家が暴走していないかを常に監視することで国家の暴走を防ぎ、国家の暴走による市民の被害を防ぎ、ひいては自らの個人的な身体や生活を守ることが可能となる。本来は、国家を監視し、国家が暴走していないかの判断材料を市民に与えることが、メディアの本義でもある。

しかし、現実にはどうだろうか。
国家は様々な形で(例えば冤罪事件の被告人への刑罰や、戦争によって)実際に市民を脅威に晒す可能性があり、現にその実績もある。だが、国家が暴走し得る、市民にとって脅威になり得るという発想は、着実に、そして急速に薄れてきてはいないだろうか。
ちょっと話は飛ぶが、核廃棄物最終処分施設をめぐる東洋町の動きの中で、非常に印象に残る場面があった。町が処分施設の候補に挙がることへの賛成派・反対派に分かれる中で、双方が議論する場面が報道されていた。反対派の人々が、処分施設の危険性について訴える。それに対して、賛成派住民の一人が、こう反論したのである。
「国が、そんな危険なものを持ってくるわけ無いでしょう」
私はこの発言を聞いて愕然とした。国家に対する「オカミ」としての絶大な信頼が、そこにはある。国家への監視姿勢など微塵も無い。
9.11直後のアメリカでは、国家の暴走によるイラク戦争よりも、一部の他国民が暴走したことによるテロのほうが、圧倒的な脅威であると認識されていた。その中で、罪もないアラブの人々が公然と監視され、取締られることが容認された。
今の日本社会は、そのときのアメリカに似ている。国家の暴走による改憲や死刑の乱発よりも、一部の国民が暴走して起こる凶悪犯罪や、他国の暴走によるテロへの懸念が重要視され、厳罰化と監視社会が容認される。「一部の暴走する市民=犯罪者を(国家の暴力によって)強固に監視し、(国家の暴力によって)厳罰に処せ」との声が高まっている。
国家がどうだろうが、かわいそうな被害者がいて恐ろしい犯罪者がいるんだから、厳重に処罰せよと、そういうことだ。

だが、そもそも、市民の恐れる(国家以外の)「脅威」そのものが、国家とそれに迎合するメディアによって煽られている。治安が悪化していると言われる昨今、その「治安悪化」自体が、国家によって作り出されている。
それこそがまさに「国家の暴走」の一端である。国家が本当に怖いもの=自分を隠すために、実際には自分の監視下であり暴力行使の範囲内にある犯罪を、さも急増しているように見せかけ、凶悪化しているように見せかけ、何よりも恐ろしいもののように印象付けてはいないだろうか。
私たちはもう一度、本当に一番恐ろしいのは何かを真剣に考える必要があるだろう。
国家への監視能力を失った社会に、国家の最大の暴力行為であり、市民にとって最大の脅威である「戦争」を、防ぐ力など存在しないのだから。

<参考資料>
【カネと暴力の系譜学】
http://www.bk1.co.jp/product/2733326
【関連資料「治安・防犯」の周辺】
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/library/library073.html


若者バッシング=貧困×自殺 [総論]

「若い奴にやる気がないから経済が破綻したんだ」とか「若い奴らは進んでフリーターを選択しているんだから、貧しくても自己責任だ」といった論調は急速に淘汰されて来ていると思う。多くの若者が声を上げ、ネカフェ難民に代表される「新しい貧困」を社会に認識させてきた成果だ。
しかし、いまだに若者バッシングが終わったわけではない。テレビをつければ、とんでもない学生や、とんでもない若い親や、とんでもない若い社員への非難を頻繁に目にする。

こういう若者バッシングが始まったのは、いったいいつの頃からだろう。
私は今26歳だが、個人的に世代の話をすれば
15歳の時(97年)に少年Aの事件が起き、少年犯罪の凶悪化が、実体のないまま問題視された。
99年には「分数ができない大学生」が出版され、勉強しない若者・学力低下が問題となった。
翌年には17歳の犯罪がクローズアップされ、「キレる若者」が増加していると問題視された。
就職する時期は「就職氷河期」の真っ只中で、正社員雇用は数少なかった。
働き始めると「フリーター」が責任感のない若者として非難され始めた。
しばらくすると「ニート」が労働意欲のない若者として問題視された。
家庭を持ち、子どもが出来る年齢になると、給食費未納に代表される「とんでもない若い親たち」が問題視された。
こうして振り替えってみると、なんだかここ10年以上、私の世代は問題視されっぱなしだ。とにかく「やる気も能力もモラルも常識もない人々」として、これほどメディアに取り上げられ続けた世代も珍しいのではないか。よくまぁ、長期間に渡って飽きもせずバッシングされたもんである。

しかし実はその間、雇用を取り巻く法律が「規制緩和」の名の下に度々変更され、非正規雇用が急増し、多くの若者が不安定な雇用へと追いやられた。一方で少年犯罪については厳罰化の声が高まり、少年法もまた「改正」された。また最近では教育再生会議の「親学」が話題になった。雇用の場面でも犯罪の場面でも家庭教育の場面でも、すべての問題を自己責任で処理して、「一度ルートを外れたら終わり」が若者に対して明確に制度化されてきた。
企業・メディア・国という「強者」の代表のような存在たちが、一丸となって「弱者」であるはずの若者を攻め立て続けている。
この社会は、なにを切り捨て続けているのか。
若者の「自己責任」にしておくことで、都合が良いのは誰なのか。
いい加減、世間は気づいて良い頃だと思う。いや気づいてくれないと困る。

日々、メディアを通して若者が存在否定され、メディアを見た世間に存在否定され、世間の声によって法的にも存在否定されて行く。そんなルートがいつの間にか出来た。
今年は大学生や生徒・児童の自殺率が、統計を取り始めて以降、最多となった。20代と30代では死因のトップが自殺。10代後半でも死因の2位が自殺である。若者の自殺と、10年以上に渡って手を変え品を変え繰り返される「若者バッシング」は、この上なく根深く、繋がっているのではないか。

<<記事を書くにあたり、影響を受けました>>
【「生きさせろ!難民化する若者たち」:著/雨宮処凛】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4778310470/sanctuarybook-22/ref=nosim
【雨宮処凛ブログ】
http://www.sanctuarybooks.jp/sugoi/blog/


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