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裁判における弁護人×検察官×裁判官の役割 [司法]

今日は以前書いたエントリー「藤井誠二×安田好弘×メディアに見る、出会いの問題」への、反省である。
日々あげていくエントリーは、もちろん私なりに考えた結果ではあるが、それが不変でもすべてでもない。だから、ミートホープ問題安部叩きについてそうしたように、エントリーに間違いがあったと思えば普通に反省したいし、出来るだけそれを反映したエントリーもあげて行きたい。

前著のエントリーは光市事件を扱っているため、そこそこアクセスを頂き、私としても気に入っている文章の一つではある。
被害者(遺族)にも弁護人にも、それぞれ異なる正当性があり異なる悲惨さがある、という認識は今も変わらないし、「私たちは「両者の板ばさみになる」過程を経てようやく、第三者として、そこそこ正しい意見や判断をもつことが出来るのではないか。」との見解は今も変わらない。また、本来であればその媒介をなすべきメディアが、この事件に関してはまったく役割を果たしていない、との認識も変わらない。
反省しているのは、エントリー半ばにあるこの部分だ。
刑事事件の弁護士は、その職業的な立場から、加害者を憎んでいる被害者やその遺族と深く関わることは、ほとんど無い。一方で加害者とされる被告とは、これも職業的な立場から、これ以上ないほど深いかかわりを日々持つことになる。

なぜこの記述について反省しているのか、まずは下記リンク先の文章をお読み頂きたい。光市事件で弁護人を勤める今枝弁護士の言葉だ。
◆今枝弁護士の話ーその7◆
ここには、犯罪被害者(遺族)の悲惨さを目の当たりにして「不覚ながら涙を流したことは数えきれません」との体験と、「同じような被害に遭って果たして加害者の死刑を求めないだろうか」との弁護人としての葛藤と、それでも弁護士の職責を全うするのだという決意が溢れている。
つまりこれを読んで私が反省したのは、刑事弁護人がいかに悲劇の山積する中で行う「やるせない業務」であるかを、実に甘く見ていた点だ。
今枝弁護士は元検察官なので、そのためもあって特に(他の刑事弁護士よりも)被害者と密接に関わっている部分はあるのかも知れない。しかし、いずれにせよ、刑事事件の弁護人の業務は、私がイメージしていたような「加害者を憎んでいる被害者やその遺族と深く関わることは、ほとんど無い」ものなどではないのだろう。
だが、その山積する悲劇と苦しみの中で、尚も加害者(とされる被告人)の権利を最大限守ることが弁護士の職責である。
一つの殺人事件が、その瞬間だけではなく後々まで、被害者はおろか裁判に関わる多くの司法関係者までをも葛藤と苦悩に巻き込んでいく。殺人がどれだけの悲劇の連鎖と大量の悲惨さをもたらすのか、改めて突きつけられた思いだ。
上記の今枝弁護士のコメントを読んだとき、私は自分の想像力の貧困さと認識の甘さを痛感し、恥ずかしくなった。人が殺されるということの「悲惨さ加減」について、私はまったく鈍感だったと思う。

さて一方で、今回それとは別に考えさせられたのは以下の部分である。

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しかし、対立当事者間の主張・立証を戦わせて裁判官が判断する当事者主義訴訟構造の中での刑事弁護人の役割は、被告人の利益を擁護することが絶対の最優先です。
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被害者・ご遺族の立場を代弁し、擁護するのは検察官の役割とされています。それが当事者主義の枠組みです。
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当事者主義の裁判においては、検察官が徹底して「被告人はこのような罪を犯しており、それ故に求刑したような処罰が適切」を証明し(=立証責任)、弁護人は徹底して被告人の立場から権利を守り、両者の主張を受けて裁判官が中立的に判断する。法曹三者がそれぞれ異なる立場から主張・証明し判断することで、正当な判決を下せる(ことになっている)仕組みである。
だから、被害者が傷つくとしても弁護人は被告人の立場に立たなければならないし、検察は充分に被告人と弁護人を追い詰めなければならないし、それを受けて裁判官は予断無く冷静な判断をしなくてはならない。どれが崩れても、マトモな裁判にならないわけだ。

今枝弁護士は「被害者・ご遺族の立場を代弁し、擁護するのは検察官の役割」と仰っているが、実際にはこれは条件付だと思う。"被害者が検察と同じ求刑を望む場合は"検察が被害者と同じ要求を主張することになるので、結果的に被害者の要求を代弁することになる。
今回のように被害者の要求と検察の求刑が一致している(いずれも死刑)とき、まさに検察は被害者遺族の代弁者かも知れない。少なくとも、裁判において被害者の代弁をなしえる立場があるとすれば、それは検察官以外にはありえない。
であるなら、被害者の要求=検察の求刑が裁判に反映されないと憤るとき、検察側への批判が出てきても不思議ではない。実際、ルーシーブラックマンさん殺害事件で無罪判決が出た際、遺族は「検察側の失敗」とコメントし、検察側が立証責任を果たせなかったことについて批判した。
念のため補足するが、なにも「遺族がそういう発想をすべきだ」と言っているわけじゃない。そのような視座もあり得る、ということだ。
検察側が職責(立証責任)を果たしていないために被害者の望む量刑が得られないなら、その責任は当然、検察側にある。もし検察が充分な立証を行うための材料が不足しているとすれば、その責任は捜査段階の警察にもかかってくる。
だが、メディア報道でも「世間」の議論でも、この裁判の不当性について語られるとき、検察側の姿勢が話題に上ることは、まず無い。


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コメント 2

愚樵

>メディア報道でも「世間」の議論でも、この裁判の不当性について語られるとき、検察側の姿勢が話題に上ることは、まず無い

これは、日本が真の意味で法治主義国家ではないということでしょう。法治主義国家においては、容疑者は推定無罪の原則で守られる。検察の責務は、その推定無罪を打ち破ることにあるわけです。そして、その推定無罪の打破にはいくつもの足枷がかけられている。これが本来の法治国家の姿のはずなんです。
こうしたことになるのも、近代国家という代物が非常に恐ろしいものという認識が根本にあるから。もし、推定有罪の原則を国家に許してしまったら、国家はいかようにでも国民の権利を侵害できる。それを防ぐための推定無罪の原則なのであり、多重の警察・検察への足枷なんですね。それが法治主義国家なんです。
ところが日本には、国家が恐ろしいものという認識があまりない。国家を信用している。これは一概に悪いと言い切れないと私は思っていますが、最近はどんどん悪い面が出てきてしまっている。そして、恐ろしいことになりつつある。
日本人の国家への信頼は、一度手酷く裏切られなければ崩れないのかもしれません。
by 愚樵 (2007-09-17 20:08) 

sasakich

愚樵さん

刑事弁護の必要性が理解されにくいのは、単純に専門的で難しいこともありますが、やはり「国家はコエーよ」という前提が無いからこそ、感覚的に理解しがたいのだと思います。
推定無罪についても、無実の人が罰せられてしまうリスクが極めて高いものであると認識するためには「国家はコエーよ」の前提が必要なわけです。それが無いと「凶悪犯を野放しにする」ことのリスクばかりが注目され、9.11直後のアメリカに見られたような「100人の無実の物が刑されようとも、1匹のテロリストを逃してはならない」になってしまいます。
今の日本はあの時期のアメリカを再現しかねないと思います。
by sasakich (2007-09-18 13:31) 

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